■ 眼が醒めると早い時間でないことがわかった。
ドアの向こうで音がする。暫くうなってから起き上がる。晃子がコーヒーを入れている。
「なんだかうなされていたわよ。その後イビキ」
口紅をしていない。
「呑み込まれる夢をみたんだ」
「あら、そう」
シャワーを浴び髭を剃った。剃刀が錆びている。すこし顎を切った。
私は何をしているんだろう。これから何をするんだ。
晃子に、吉川と連絡をとるように言った。奥山の力も借りるように。
「あなたはどうするの」
「わからない」
溜め息をついている。
「ちっとも変わらないわね。昨日、わたし危険日だったのよ」
「うん」
「銃は持ってるの」
「いや」
後ろの頭が薄く痛かった。晃子は生理が重く、中の一日はほとんど寝てばかりいたことを覚えている。コーヒーで薬を飲んだ。
「懐かしいって訳でもないわね」
「そんなに緩かったかな」
「なによ、下手な癖に」
私は上着を着て外に出た。
冬の空は明るく、すこし目眩がした。
上着のポケットからサングラスを出し、階段を降りた。
低い屋根が続いている。
十年前と同じ眺めだ。交差点で車を待っていると、ふたつ向こうの路地に晃子が住んでいたモルタルのアパートがあったことを思いだした。
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「夜の魚」一部 vol.87
■ そこからの自分の行動を私は旨く説明することができない。
椅子から立ち上がり浴室に入った。
するすると下着を脱ぎ捨てると、熱いシャワーを長いこと浴びた。
ポンプ式のシャンプーで頭から躯を洗った。
垢すりのタオルが柔らかすぎる。ドアを開け、上着のポケットから煙草を取り出した。風呂の椅子に座って漠然と吸っている。
晃子が覗いた。
何も言わないで眺めている。浴室から出ると、新しい下着があった。
晃子のベットの脇に布団を敷いてもらう。
髪は濡れているが、乾くのを待つ訳でもない。
恐らく、今夜は北沢からの連絡はない。葉子の実家に電話をしてもほとんど意味もないだろう。さらわれた葉子がどのように扱われるのか、北沢の声で判断がつく。それに対抗する手段がほとんどないこともわかっている。
酒のグラスと灰皿を傍によせ、布団の上にあぐらをかいた。
「ともかく、寝よう」
暫くして晃子が寝室に入った。灯りが消される。
胸とその下の下腹に指を滑らせ、くぼんだものをかき分けた。
あらかじめ湿度ある沼のような重さが指に伝わる。
緩いものの中に入ってゆき、ただ動いた。まわすこともせず。
押さえた声が高くなる。脇の下から薄い匂いが昇っている。
懐かしいのかどうかわからず、暫くして眠りについた。
悪い夢をいくつかみた。
若い時の自分が、同じような過ちを繰り返している。
その傍に今の自分が立っている。
夢が醒めるとまた夢に入った。
それが夢なのだということはわかっている。
眠っている自分の布団から長い髪の毛が細くはい出してきて、かけてある毛布を持ち上げてゆく。
それを鋏で切ってゆくおかっぱ頭の女の子がいる。
その子の眼はあいているが見えず、赤い着物を着ていた。
「夜の魚」一部 vol.86
■ ロシア革命の時のテロリストは、逡巡しながら人を殺したのだという。
詩人の魂とテロリズムが両立できた時代もあったのだ。
ポーランドにあった工業的人種廃絶の強制収容所に、カポと呼ばれる囚人頭がいたことを私はふと思いだした。
彼等は仲間を統制するために選ばれ、時には本当の看守よりも残忍な手腕で同じ国の人々を進んで殺していった。そうでなければ自分の身が危うくなったのだ。
北沢がカポであると思っていた訳ではない。
溶剤を使い、顔もわからなくする方法があることを何処かで聞いたことがある。残った骨は粉砕器にかけるとただの粉になるのだそうだ。そうした方法が実際に可能かどうか、私にはわからなかった。けれども、拉致されて国外に連れ去られればそれで事は済んでしまう。
北沢はそういって脅す。
日常的なもの言いになっているところが不気味だった。
奴は生っ粋のサディストなのだろうか。どうでもいいことだ。
恐らく葉子は拉致された。フロッピーには何が入っている。
二杯目を注ごうとした時、晃子が遮った。
座っている私の傍に立ち、腕を廻して頭を抱いた。
私は柔らかいセーターの胸に顔を埋め、声を出さずに言葉を発した。
誰が何を試そうというのだ。
「夜の魚」一部 vol.85
■「はじめまして。いつぞやは連れが大変失礼しました」
北沢の声だ。
テロリストと話したことは一度もない。
声には知性が出ると、ある写真家が言っていたことを覚えている。
北沢の声にはある程度の教養が滲んでいるかのようにも思える。
錯覚だ。
一度に酔いが醒めてゆく。
カーテンの影から下を覗こうとした。
通りの向こう側、僅かに離れたところにスモールを付けた車が一台停まっている。
「そう、車の中からなんですよ。あなたとは始めてですねえ。これからそこに泊まるんですか、いや、彼女はいい女ですよ」
何を言っているのか、女のことだ。
「それで、何の用だ」
「いや別に、唯の挨拶ですよ。ああ、そうそう、葉子が大変お世話になったそうで、これから連れて帰りますから」
「なんだって」
「わたしの元に戻りたいというものですからね、今傍にいるんですよ」
北沢の声は低い。ゆっくりと、そして深い。
その深さの中に濁ったものが混ざっている。
「ところで、明日お時間ありますか。あなたの持っているフロッピーを持ってきてくださいよ。葉子の顔が薬で溶けてしまったのをみるのはあなたも嫌でしょう。場所はまた電話します」
そこでプツリと電話が切れた。
窓を開けベランダに出るとハイビームにした車が加速するのが見えた。
奴はその中にいたのだ。
恐らく葉子がさらわれた。
藤沢の外れの実家には母親だけがいると葉子は言っていた。
その番号は手元に無い。フロッピーだって。なんのことかわからない。
私は椅子に座り、ウィスキーをグラスに注いだ。
窓から風が入り、髪を乱した晃子が立っていた。
「夜の魚」一部 vol.84
二一 湿度ある沼
■ 晃子はワインを半分以上あけていた。次第に酔いが廻ってくるのがわかる。結局、まともなことはなにひとつ話さなかった。
葉子のこと、奥山のこと、フィリピン共産党の武装集団、遠く連なっている赤軍やそれと結びついている様々なボランティア組織のこと。北沢とは何者なのか。ひとつひとつは別々なのだが、それらは細い糸で繋がっている。
「泊まってく」
晃子が唐突に尋ねた。時計をみると十二時に近い。
寝ましょうか、と聞かれているのかと思った。
「ベット、ひとつしかないんだろう」
「どうかしら」
すこしだけ心が乱れた。振幅が顔に出たかも知れない。
「やめとくよ」
「彼女に悪いから」
そうじゃない。別に悪いとも思わない。その気がない訳でもない。ただ、なんだかモラルに反するような気がするのだ。そんなことを口にするのが嫌なので、黙っていた。
その時、電話が鳴った。晃子が椅子から立ち上がり受話器を取る。
晃子の顔色が変わる。カーテンを開けて外を見ようとする。
「北沢がきてるわ」
黒い瞳が大きく見開かれている。
私は受話器を晃子から受け取った。耳にあてると低い声が笑った。
「夜の魚」一部 vol.83
■ 手くらい洗うだろう、と思ったが黙っていた。
「白いセダンを買ったわ、あなたの嫌いな小さなベンツ。それで買い物にゆくのよ」
今のように世の中が変わりそれに馴れてしまう前、私たちは何か夢のようなものが目の前にあるのだと思っていた。
それは小奇麗なマンションだったり、女子大を出た妻であったり、イタリアのダブルのスーツであったりした。
様々なものが膨らみ、私の仕事もそのお零れに預かっていたのだ。
膨らみきった後、内蔵のようなものがはみ出し始めている。
「ある時ね、高いスーパーの喫茶店でお茶を飲んでいたのよ。隣に同じ歳くらいの奥さんが何人かいて、話しているのが聞こえたわ」
霜降りの牛肉は旨い。
遠くから外車に乗ってその店に買い物にゆくのが結婚に成功した女の証のように思われていた時がすこし前まであった。
駐車場には守衛がいて、車を値踏みしながら丁寧にお辞儀した。
「帰りに車をぶつけて、二週間入院したわ。退院してから、隣の病室に入っていた若い営業マンに誘われたという訳」
「夜の魚」一部 vol.82
■ 女ふたり、男のことを話す以外に何がある。
あのとき私は吉川と倉庫の階段に腰掛けていた。
小さなステンレスのカップでウィスキーを飲み、吉川の話を聞いていた。はじめ、葉子は晃子に会うことを嫌がった。
「彼女は他人の心が読めるようだわ」
晃子が三杯目を注いだ。
「どうして別れたんだ」
「だから、わたしが浮気をしたのよ」
「シャクだから傍にいた男と寝たの」
シャク、という言葉を今日はよく聞く。
便利な言葉のような気もする。恨みがある訳でも流しているのでもない、その合間を縫ってサラリと言う。
「気持よかったか」
「すこしね」
晃子の前の夫は真面目な勤め人だった。
杉並に部屋を買い、週に一度は夫の実家に戻って食事をするのが習いだった。
「べつにね、マザコンって訳でもないの。大事にしてくれたしね」
小さな灰皿を机の脇に置き、晃子が細い煙草を吸った。
「寝室があってね、そりゃ新婚だから。彼が念入りに手を洗っているの、済んだ後でね」
「夜の魚」一部 vol.81
■「すこし飲みましょうか」
晃子が棚から背の高いグラスを取り出した。
バカラではなく、国産の最も硬質な種類のグラスだった。脚に色がついていないところが晃子らしい。
麻のコースターを引きその上にグラスを置いた。
手際よくコルクを抜き、白いワインを注いだ。
「あなたはウィスキーの方がいいのよね」
小さなグラスを取り出してその横に置く。後は自分でやれというのだ。
「このコースター、自分で作ったのよ。接着剤で張り付けたの」
女ってのは面白いもんだな、と私は思っていた。どれが本当の姿なのか簡単でもない。
「倉庫に寝てた時ね、彼女がいたでしょ。話してみると案外素直なのよ」
吉川が撃たれた夜のことだ。
晃子と葉子はビジネスホテルのような倉庫の管理人室で眠ることになった。
「どういう関係なんです、って聞かれたから正直に答えたわ。遠い昔の男、って言ったの」
「遠い、ね」
「十年も前のことだわ」
「するとね、今でも好きなんですか、とこっちを向いて言うの。その眼がね、挑戦的という訳でもないのよ」
「夜の魚」一部 vol.80
■ 晃子の部屋の玄関には小さな額縁が飾ってあった。
幾何学的な模様が灰色の下地に何本も重なっている。
私は部屋に入った。ソファの上に鈍い赤色の布が被さっている。全体をくるむように、その色は三十を過ぎた女の部屋には強すぎる印のようにみえた。
晃子の唇が動いた。
「この上だったのよ」
冷ややかに見下ろしている。
「わたしは眼を開けてソファの模様を見ていた。ナイフでなぞられるまではね」
おそらく、そういう姿勢を取らされたのだろう。晃子の下唇には二本の深い筋がついている。決して小さいとは言えないが感情のこもったかたちをしている。
「買いかえるのもシャクだから、布を被せたの」
それが赤い布であるところがしたたかさというものだろう。
私たちはコーヒーを飲んだ。向かい合っていると懐かしい気配もしたが、それが錯覚であることはわかっている。
「すこし整理をしようか」
私はその時、晃子も同じ次元にいるのだと考えていた。何か知らないものに巻き込まれているのだと思っている。
「あの葉子って娘は、どんな子なの」
珍しく晃子が直裁に聞いてきた。
「寝てるから恋人って訳でもないだろう」
「ライターの癖にツマラナイことを言うのね」
晃子はまだ苛立っている。
私は医局の友人から送られた文献の話をした。見事に切断されたいくつもの断片があって、それを目まぐるしく替えてゆく。
どうしたらその場に一番適応できるのか、現状を認識する能力は基本的に高い。けれども、そうできるのは内部が見事に空白だからであって、本人はその空白に何処かで気付いている。であるから、長期的には適応も底の浅いものになってしまう。揺れながら異性や薬物に依存することもある。
旨くは説明できなかった。
「でも、それってわたしたちだって同じじゃない。ひとをモノや部分のように扱うことはあるわ」
私は、そもそもどれが本当の姿なのか掴み難いのだと言った。
「そこが魅力なのね」
晃子はコーヒーを飲む。大きな黒い瞳である。
「そうかも知れない。なんだか理詰めで考えても無駄のような気がするんだ」
「歳をとったのよ」
晃子が小さなステレオに手を伸ばした。スイッチを入れるとほんの僅かに音のずれたピアノが小さく聴こえた。
「エバンスは甘いわね」
外が暗くなった。自分のことを言われたのかと思った。
「夜の魚」一部 vol.79
二〇 一月
■ 一月は乾いた空と時折の雨で始まった。
入院していたせいで仕事が溜まっている。私は誰もいない事務所で二つのディスプレイを眺めていた。灰皿がいくつか山になった。通りが静かになって夜が過ぎ、気付かないまま新年になっていた。
雨は思いだしたように降り、すこし経つとすぐにあがった。空気は乾いたままだ。
連休の前日、私は同じように深夜まで画面を眺めていた。
すこし歩き、車を拾って部屋に戻った。あれ以来、自分の車にはほとんど乗らなくなった。ヒーターがうなるのを待ち、薄いコーヒーを入れようとした時、電話が鳴った。
「あら、いたのね」
晃子だった。
「去年のイブの夜ね、北沢から電話があったわ」
微かに躯がこわばるのがわかった。
「近いうちにまた顔をみせてくれ、って言うの」
北沢は生きていた。サーブは北沢のものだが、運転していた男の肌は褐色だった。
「声を覚えているのか」
「そりゃね」
「彼女、葉子さんは今どこにいるの」
「今は実家だろう、住所まで聞いた訳じゃないが」
「どうしてあなたって誰にでも一定の距離をとろうとするの」
晃子はすこし苛立っている。時計をみると午前三時に近い。
「眠れないのか」
「そう。また無言電話があったのよ」
私は冷たいベットに腰掛け、晃子の話を一時間程きいた。
イブの夜は、退院した吉川が銀座の外れで食事を奢ったのだという。吉川はまだ酒が飲めず、晃子がなにやら高いワインを一本飲み干した。
「送らせて欲しい、って真面目な顔して言うのよ」
ドアの前の情景が目に浮かぶ。帰る姿も。
「部屋に戻って着替えていたら電話が鳴ったの」
それが北沢だったのだ。
「わかったよ、午後になったらゆくから」
そう言うと、上着だけを脱いで眠りに落ちた。
「夜の魚」一部 vol.78
■「ねえ、わたしが中国人だったらどうする」
葉子が唐突に尋ねた。
「じゃ、韓国籍だったら、寝れる」
「どうしてそんなことをきくんだ」
「あのね、若い男が寄ってくると、韓国籍だと言って追い払うのよ」
私は手を伸ばして灰皿を探した。正直言って、考えたこともなかった。
「若い男はどうするんだ」
「急におとなしくなって、そのまま帰るわ」
「そうだろうな」
と、答えてから自分の言葉に驚いている。
「川向こう、っていうんだってね」
「あなたなら、どう」
「多分、最後のところでためらうだろう。…きちんとできないような気もする。自信はないよ」
「正直なひとね。でも、遊びならできるのよ」
葉子が起き上がった。煙草を一本抜き取り、安いライターで火をつけた。
「セックスって、やっぱり政治的なものだわ」
「七十年代の文化人みたいなことをいうんだな」
「そうじゃないのよ、慰安婦問題だってね、相手がもし欧米人主体だったならすぐに謝っている筈じゃない」
第一、白人を慰安婦にする発想はない、と答えようとした。当たっているので黙っていた。水平に動くエスカレーターのある街で、そこにそびえている新しいホテルの中で、およそクリスマスには相応しくないことを話題にしている。しかも裸だ。
葉子の背中はくびれていた。手足は長く伸び、顎の線は鋭角で無駄なものがなかった。切れ長の瞳は、手入れをしていないと見せた眉毛の下で、大陸系であるかとも思われる。肌のきめは細かい。
いつぞや、周辺性について調べていると面白い記述があった。マージナル・マンと定義されていたナチスの指導者達を、旧ドイツの財界人は、「川向こうの奴等」と呼んでいたのだという。旨く利用するつもりだったのだろう。
私は葉子について考えた。子供のような横顔を見せたかと思うと、簡単には答えられない質問をしてくる。それは本質を抉っているかのようにも思える。
北沢と寝たのはそのせいか、と尋ねようとしたが思いとどまった。
暫くぼんやりし、眠ることにした。
「先に寝てて」
葉子はそう言う。何かを考えているようでもある。
葉子の肩口に毛布を掛け、背中を向けたところで隣のベットに移った。いつの間にか眠りに入る。
「夜の魚」一部 vol.77
十九 対岸
■ 私たちはホテルに戻った。
イブの東京湾は思いの他静かだった。軽くシャワーを浴び、酔いを醒ます。石鹸で頭を洗うと、キシキシして何本も毛が抜けた。
「どうするの」
葉子はシーツを被っている。
「まあ、いいんじゃないか」
私は煙草を吸った。決まりみたいなものだ。
寝よう、と直裁に言ってあれこれ理屈をつける女を私は信用しない。
若い女ならともかく、一定の経験を積んだ女性がもったいぶる姿をみると、上着を抱え取ってかえすことにしている。かといって、すべてを解放してゆくのもいかがなもので、性の底には明らかな暗さも怖さもある。避ける訳にはゆかない。その上で自分と相手の欲望を認め、素直に受け入れる姿勢を示す女性を好ましいと思っている。葉子は直裁に反応した。
わかったわ、何処、と芝浦で答えた。ホテルに戻ることにしたのだ。
「マゾっ気があることはわかった。今日は普通にゆこう」
私はシーツに潜り込んだ。半ば眼が醒めたような姿勢のまま、形の上では外側に終わることにした。葉子は唇を使わなかった。そうしようという気配を押しとどめた。背中を抱いている。葉子は足首を絡めている。
「夜の魚」一部 vol.76
■ 桟橋の中に入った。
鍵をかけ忘れた柵があって、横に動かして車を入れた。
人影はない。
「この曲、聴いたことがあるわ」
オーケストラの演奏でクライマックスに近づいていた。曇った音は録音が古いせいだけでもない。音をすこし大きくした。黙って聴いている。
「なんだか、自由への渇望って感じの演奏ね」
葉子は人の心を読む。こちらが気付いていない偶然の出来事の意味を探る。カセットを持ってきたのはフトした弾みで、棚の端にあるものを選んでみた。それがフルベンだったのだ。演奏は一九五○年くらいのもので、当時のヨーロッパは大戦の痕が生々しく残っていた。ドイツはふたつに割れ、戦争の危険すら濃厚にあったという。
「わたしね、ローラって本を読んだことがあるのよ」
「フライパンで母親に焼かれた女の子の話」
「口も耳も、みんな不自由なの」
「ボランティアを始めた頃、読んだの」
幾分かは嘘が混じるのだろう。
しかし、別の意味を考えることにした。自分も焼かれているのだと示唆しているのかも知れない。半ば嘘が混じり、半ば切実で、その間を葉子は忙しく揺れている。揺れに耐えられなくなると、自分を物として扱おうとするのかも知れない。
「君は、マゾか」
「え」
「マゾッ気が強いだろう」
「うん」
「安心するのか」
「わからないけど、そうかも知れない」
サディスティックな部分も強いことはわかっている。並の男以上に冷静・確実に車や銃を扱うこともできる。頭の中には残酷な思い付きが浮かぶことも度々あるに違いない。
「じゃ、寝ようか」
ひとくぎりついたような気がした。
「夜の魚」一部 vol.75
■ 外に出ることにした。葉子はそれ程飲んでいない。
葉子は皮のコートを羽織った。口紅が赤い。地下の駐車場にゆきBMWを出した。葉子に運転をさせる。山手通りに曲がってゆく。
私は鞄からカセットを出し機械に入れた。
「なに」
「フルベンというじいさんが指揮するオペラだよ」
「芝浦にゆこう」
イブの夜の山手通りは混んでいた。千葉や多摩ナンバーが並び、渋谷からの坂を下るのに一時間かかった。
拍手の音が入っている。バス・バリトンの声が低く響いている。彼は悪役で、幽閉された囚人を謀殺することを命ずる。
「訳がわからないわね」
葉子は薄い不満を口にした。しかし、ボリュウムを絞ることはない。
私は何か別のことを考えていた。酔いは鈍いものに変わった。
私は葉子に心を読みとる能力があるのではないかと思っている。
今、ワイダをもってくるのは何故か。
葉子を眺めていると、切断された鮮やかな断片が印象に残る。そうしたシーンはいくつも思い出すことができる。しかし、それらは分断されていてひとつのものとして統合されることがない。
借りてきたビデオの中に鑑別診断をする場面があって、それは人間かそうでないのかを曖昧に区別する技術だった。友人から送られた文献のリストには、いくつもの質問形式が例文として載っていた。「ボーダーライン・スケール」と呼ばれるもので、該当するものが多い程疑わしいということになる。
「私は周囲の人や物事からいつも見放されているかんじがする」
「最初にあった時はその人はとても立派にみえるが、やがてガッカリすることが多い」
「他人は私を物のように扱う」
「残酷な考えが浮かんできて苦しむことがある」
「私の内面は空虚だとおもう」
確か、そのような質問が五十程度並んでいた。試みにテストしてみれば、恐らく私も該当の範囲だろう。
ポーランドには沢山の強制収容所があって、そこでは何十万というユダヤ人やジプシーが殺された。
人種、民族という曖昧な境界であったが、線を引き、ひとつの民族を地球上から根絶しようとする思想は何処から出てきたのだろう。
ベートーベンの、「フィデリオ」は難解で一般受けしないと言われる。
確かにロマンチックでもないし、誇張されてもいない。
暗く、聴いていると辛くなるかのようだ。
車が流れ出した。
葉子がセカンドで引っ張った。
舌先を伸ばしていた時の表情は微塵もない。葉子は自分を物のように扱っているのだと気付いた。
「夜の魚」一部 vol.74
■「撃った時、どんな気分がした」
私は尋ねた。葉子の眼が光り、フンと鼻が上をむく。耳が隠れる程伸びた髪が一度開き、躯を起こしてこちらを向いた。
悲しんでいる訳でもない。怖がってもいない。葉子の姿はとりとめがない。
私の座っている椅子の傍により、葉子は猫のように跪いた。
私のバスローブを開く。スイッチが切り替わったのだとわかった。
葉子が私を誘ったのはなんのせいか。
話したのは何処までが本当か。自分がわからなくなるという。ノルビックの詩を覚えたのは私が喜ぶとおもったのか。
女の敵は女だという。
目線で、あるいは隠された口紅の下で、若い女は毎日何人かの同性を殺している。
しかし、本当に銃を打つ訳ではない。そのように訓練されたひとがいることを私は知っている。撃たなければならない国に住んでいるひとも。中国の狐のような女は、北沢の女のひとりだった。葉子は北沢の子を孕んでいた。
空調の音が微かにする。
舌先が太股の内側を遊んでいる。
髪が触れる。
まだ一度にはゆかない。私は葉子を押しのけた。
「倉庫で晃子と何を話していたんだ」
口紅がとれている。鼻の廻りに細かい皺がよって唇を丸めた。不満なのだ。
「晃子さんは、あの女に会ったら殺してやるといっていたわ」
「それだけじゃないだろう」
「ええ、あなたのことを聞かれたのよ。…あなただって共犯じゃない。銃を使わなかっただけよ」
「そうだ」
後に続く言葉を捜したが、簡単ではなかった。
腹の底でなにか冷たいものが動くのがわかった。
「夜の魚」一部 vol.73
■ 葉子は髪が伸びていた。私はグラスを持っている。
触る気持が起きるのを待っていた。
「わたしってね、たいていのことは旨くゆくんだけど、肝心なことがわからないのよ」
葉子が言った。
「こうすればこの人はこう動く、ってこともすぐにわかってね、相手に応じて器用に使いわけることもできるの」
「誰でもそうじゃないか」
「でもね、そうしていると自分がなにをしたいのか、段々わからなくなってくるの」
私は持ち込んだワインで餃子を食べていた。新築のホテルの部屋でポリ容器に醤油を垂らし、上品な餃子をつまんでいるのは不思議だ。味はいまひとつ。
壁が薄いのだろう。建物全体が合金の上に薄い石を張ったような造りだった。沢山のひとの声が微かに響いている。
「よく予約できたな」
「父に頼んだの」
「親父さんは何処にいるんだ」
「上海」
「上海で何をしているんだ」
「ビールを売っているのよ」
また訳がわからない。
「卒業したら上海にゆくわ」
葉子はそう言う。
私たちは赤いワインを飲んだ。ぬるくなってきている。葉子は短いショーツ一枚になっていた。その上に備え付けのバスローブを羽織っている。
そう大きくはない胸がみえる。
まだ芯が残り、強く掴むとはじめのうちは痛がった。
「夜の魚」一部 vol.72
十八 渇く
■「松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき」
葉子がベットの上で低い声を出した。
「なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを」
どこかに記憶がある。埃を払うと鈍い金属版が覗ける。
「銀座で映画をやっててね、観たのよ」
「灰とダイヤモンドか」
「ワイダってひとが書いたのかとおもってたわ。本を読んだら難しくて最後まで読めなかった」
「でも、はじめのところだけは覚えたの」
アンジェイェフスキだったと思う。小説の扉に、ノルビックの書いた詩が引用されている。
「灰の底ふかく、燦然と輝くダイヤモンドの残らんことを」
私は、「自由」という言葉につまづいている。葉子が口にすると、何か意味があるかのように思えた。
「自由になりたいのか」
私は葉子に尋ねた。
「ずっと、そう思っていたような気もするけど」
空調の音が低くしている。
部屋は乾き、窓からは隣にあるビルの灯りがみえている。葉子が予約したのは、恵比須にある人工的な街のホテルだった。
駅から続く水平のエスカレーターがあり、それはいつも警告の声を流している。
少しだけ開いた土の中に痩せた樹木が埋まっていて、そこには小さな電球が無数に纏わりついている。
照明を浴びた建物の前で、若い男女が写真を撮っている。座り込んでいる若者もいる。
人工的な街の中にあるデパートで酒とグラスを買い、部屋に潜り込むことにしたのだ。
「でも、自由って何かしらね」
私は葉子が撃った中国女のことを考えていた。
火花はトカレフの銃口から短い間、白く出ていた。
「夜の魚」一部 vol.71
■ 土曜日になった。
私は地下鉄を乗り継ぎ、表参道に出た。
明るい通りからとって返し、ガラス張りの店を何軒か越した。注意深く眺めていると店の名前が随分変わっている。
いつだったかこの辺りで高いシャツを買ったことがある。
モデルをしていたと思われる眉毛の濃い男が胸元をはだけ、ツータックのパンツで説明をしてくれた。
金を払い、むかし雑誌でみたことがある、というと露骨に嫌な顔をした。
稚児が古くなると店に廻されるのだと聞いた。
古いと言っても二十代半ばでしかない。
坂をまっすぐ降ることはせず、左に曲がり青山墓地の手前の陸橋に向かった。
タクシーの後ろに見覚えのあるBMWが停まっている。
エンジンを切ってスモールを灯けている。
葉子は陸橋の橋桁にもたれていた。
下はキラー通りだ。黒い皮のコートを着て、短いブーツを履いている。
その下はスカートなのか、灰色のようにも思える。
私は脚を引きずっていることに気付いた。片方が硬直し、踵だけが擦り減るような気持がする。
「よお」
と挨拶すると、葉子が指をさした。
まだ低いところに赤と茶色の月があった。
大きくて斑な模様がはっきりとしている。
上の方が欠け、ビルの間から昇ってきている。
「この世の終わりみたいだね」
葉子がそんなことを言う。
横を向くとタワーが立っている。
一番上のところだけがみえなくて、晴れてはいるがガスが出ているのだとわかった。
空の上も風がないのだろう。
「夜の魚」一部 vol.70
■ 電話を切って、すこしだけぼんやりとした。
夢であり、ここにこうしていることが偶然の産物なのだということをその時は信じた。
雨の中、オランダの俳優が死んでゆくシーンがあった。
電池が尽きるように、アンドロイドは短い寿命を終える。
チップに人為的なバグを混ぜているのかも知れない。バグはどの機械にもあって、有機的な筈の私たちも例外ではない。
「ビタミン・サラダ・カルシウム・弁当」
という冗談を事務所で誰かが言っていた。新製品のネーミングにどうだろうか、ということなのだろう。
有効成分を、単体で採ることが日常的になっている。
地方の医学生は、コンビニで買ったコロッケをつまみ、カルシウムの錠剤を噛みながらジャズ喫茶のカウンターで猫の腹を撫でていた。
彼女は瞳の大きな肌の荒れた美人で、薬に溺れた頃のアート・ペッパーが好きだと言っていた。時々男を替え、寂しいからと八階建てのマンションで暮らしていた。今は眼科医になって港の傍の病院に勤めている。
私はビデオを止め、酒を嘗めた。内側に篭る気配が濃くなってきている。
そういえば、トカレフはどうしたのだろう。
あの時、流れる自分の血のぬるさに新鮮な驚きを覚えた。
赤い血は暫くすると黒く固まり、シャツを脱がされる時、かさぶたが剥がれて痛んだ。
「夜の魚」一部 vol.69
十七 低い月
■「今度の土曜はなにしてるの」
「年賀状の宛名書きだよ」
「日曜は」
「できなかった分を書くんだよ」
今年は土曜日がイブだ。私はメンソールの煙草を吸った。近頃、部屋に置いておき、思い出しては吸うことがある。
「食事にゆこうよ」
「東金はごめんだ」
「いいじゃない、髪もだいぶ伸びたし」
「東金がか」
「そうじゃなくてね」
葉子は私を誘っている。私は半身になっている。
この数年、クリスマスについては随分静かになっていたのだけれども、今年は街の様子が違っている。眼の色を変えたかのように宝石売り場にシャツを出した若者達が並んでいた。耳に穴を開けるのだそうだ。耳だけでいいのか。
「予約したのよ」
そこで腹が立った。冗談じゃない、昔からクリスマスには餃子とビールで一杯やることになっている。部屋に帰ってから、小さなケーキをひとつ食うのだ。そう言うと、葉子は電話に溜め息をついた。
「だから、餃子を予約したの」
私はすこし酔っていた。いい年をして、ロウソクの炎に揺れる女の顔を眺めていても仕方ないと思っている。油の浮いた壁の前で、蛍光燈の光に青ざめた毛穴を茫然と眺めているのが好きだ。
葉子がBMWで迎えにくることになった。