■ 晃子の部屋の玄関には小さな額縁が飾ってあった。
 幾何学的な模様が灰色の下地に何本も重なっている。
 私は部屋に入った。ソファの上に鈍い赤色の布が被さっている。全体をくるむように、その色は三十を過ぎた女の部屋には強すぎる印のようにみえた。
 晃子の唇が動いた。
「この上だったのよ」
 冷ややかに見下ろしている。
「わたしは眼を開けてソファの模様を見ていた。ナイフでなぞられるまではね」
 おそらく、そういう姿勢を取らされたのだろう。晃子の下唇には二本の深い筋がついている。決して小さいとは言えないが感情のこもったかたちをしている。
 
「買いかえるのもシャクだから、布を被せたの」
 それが赤い布であるところがしたたかさというものだろう。
 私たちはコーヒーを飲んだ。向かい合っていると懐かしい気配もしたが、それが錯覚であることはわかっている。
「すこし整理をしようか」
 私はその時、晃子も同じ次元にいるのだと考えていた。何か知らないものに巻き込まれているのだと思っている。
「あの葉子って娘は、どんな子なの」
 珍しく晃子が直裁に聞いてきた。
「寝てるから恋人って訳でもないだろう」
「ライターの癖にツマラナイことを言うのね」
 晃子はまだ苛立っている。
 私は医局の友人から送られた文献の話をした。見事に切断されたいくつもの断片があって、それを目まぐるしく替えてゆく。
 どうしたらその場に一番適応できるのか、現状を認識する能力は基本的に高い。けれども、そうできるのは内部が見事に空白だからであって、本人はその空白に何処かで気付いている。であるから、長期的には適応も底の浅いものになってしまう。揺れながら異性や薬物に依存することもある。
 旨くは説明できなかった。
「でも、それってわたしたちだって同じじゃない。ひとをモノや部分のように扱うことはあるわ」
 私は、そもそもどれが本当の姿なのか掴み難いのだと言った。
「そこが魅力なのね」
 晃子はコーヒーを飲む。大きな黒い瞳である。
「そうかも知れない。なんだか理詰めで考えても無駄のような気がするんだ」
「歳をとったのよ」
 晃子が小さなステレオに手を伸ばした。スイッチを入れるとほんの僅かに音のずれたピアノが小さく聴こえた。
 
「エバンスは甘いわね」
 外が暗くなった。自分のことを言われたのかと思った。