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金峯山寺
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■ 吉野という土地は、ある種の霊場、聖地であったのかも知れない。
大和盆地に大倭の国を形成したひとたちからみると、吉野の国は妖しく神聖な未開の風土であり、そこに住む人々は半人半獣の生尾人であると「古事記」の序には記されているという。
確か「土蜘蛛」の伝説は、吉野ではなかったか。
天武天皇の擁立に力を貸したとされる、役行者小角は山中に修行を重ねた。
最澄・空海以前から伝わっていたとされる「雑密」(ぞうみつ)、すなわち密教の教えと、道教・陰陽道などの要素が混在し、古くからある水源信仰、山岳信仰などと混在一体となって、後世庶民の宗教的底流をかたちづくってゆく。
役行者小角に、北アジア型シャーマンとの類似を認める民族学からの指摘もある。
吉野の桜は修験道の一般化にともない信仰の対象ともなっていった。
つまり、数千本ともいうあの見事な桜は、村人の保護を受けあるいは寄進され、歴史の中で積み重なってきたものだともいう。
平安時代に入ると、吉野は末法思想の救いの地として注目を浴びる。
藤原道長は、この世の浄土ともいえる宇治の平等院鳳凰堂の建立では足りず、自ら書写した法華経を金嶺山寺に奉納する。当時流行した、埋像埋経の儀式によるものであるが、吉野の金嶺山(かねのみたけ)はそれにふさわしい聖地であると考えられていた。
義経が兄頼朝に追われ、逃げ込んだのが吉野の山。
女は入ることが出来ない「女人結界」を前にして、白拍子の静は引きかえさざるを得ない。
「吉野山 峯の白雪ふみわけて 入りにし人の あとぞこひしき」
結界とは、一定の清浄な聖地を画定しつつ、仏道修行に妨げになる者は入ることを許されないとするものである。最澄が、比叡山ではじめて具体的に定めたものとされる。以来「女人結界」は、密教的色彩の濃い霊山にみられるようになってゆく。
それから一世紀半、後醍醐天皇南北朝の悲劇も、この吉野が舞台である。
幕末には「天誅組」
大岡昌平氏は、明治維新に先立つことわずか五年前の「天誅組」の事件を小説化している。「レイテ戦記」と並ぶ、大岡氏の負け戦への関心である。
吉野は、京、奈良からの後退陣地、抵抗陣地として「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と歌われていった。
■ 空が暗くなってきた。すこしばかり靄も出ているようだ。
携帯電話でいくつかの旅館に電話をしてみると全て満室。こちらが一人であるのもいけない。僅かに残された宿は、ここ金嶺山から山道を車で二時間半だという。途中、迷うのは必定である。
歴史の重層を、僅かな時間で垣間見ることはできない。
ここに来たということだけでも、良しとすべきだと私は考えた。
坂道を下り、バス駐車場に小型車を入れる。吉野へのケーブルカーの終点がある。階段を降りてゆくと、テレビがついていて、係員の人がひとり居た。
声をかけ、一枚を撮る。黄土色のケーブルカーは永く使われていて、鉄の色がところどころ見えていた。
桜の頃合いには満員になるのだろう。
そうこうしていると、ぽつりぽつりと雨になった。
2002_11_20
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