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春日大社
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■ 午後からずっと、奈良公園を歩いていたらくたびれた。
私が訪れたのは六月の始め、梅雨の切れ間ともいうべき、晴れた日がめずらしく続いた時であった。半袖の上に、黒い撮影用のベストを羽織る。水のペットボトルをカメラ・バックの脇に突っ込み、補給しながら歩いた。
外から訪れた人間にとって、定番のアングルや雲のかたち、空の色などは選ぶことができない。待っていることも不可能である。
その意味では、やや物足りない、深みのないものにならざるを得ないのだが、よほどの信念と熱意がない限り、「何時でも撮れるは、何時までも撮れない」にもなりかねない。少なくとも私の場合、そうなることは明白である。
日々、緊張が続かないのである。
■ 歩き疲れ、またすこし路に迷ってしまった。
辺りは暗くなりかかっている。
公園の中で迷うことがあるのか、と言われれば、奈良公園の場合にはありうる。森の中でかすかに音がして、それが鹿の声であるのだと気づくに時間がかかった。
「仁徳記」にこんな話が残っているという。
摂津の国の莵餓野(とがの)で、仁徳帝は皇后と毎夜、シカの鳴く声を聞いた。その鳴声は日ごとに哀しさを増す。ある夜、鳴声がぱったりと止んだ。
あくる日、猪名県佐伯部(いなのあがた さえきべ)という男が皇后にご馳走を献上する。天皇が「これはなにか」と尋ねると、「兎餓野の雄ジカの肉です」と答える。天皇は怒り、以後彼を近づけなかったと---。
吉名張(よなばり)の 猪養(いかひ)の山に 伏す鹿の
嬬(つま)呼ぶ声を 聞くがともしさ(大伴の坂女郎女・巻八・一五六一)
ともしさ、とは羨ましいという意味である。万葉の歌人は鹿の声に「妻恋」という思いをあずけることが多かった。
2002_10_27
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