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興福寺
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■ 入江泰吉は、大阪大空襲で自宅を焼失、奈良の生家に移られる(昭和20年3月)。全てのものを喪ったと呆然とする中、奈良の仏像などが進駐軍に接収されるとの伝聞を聞き、乏しい機材の中、寺院・仏像などの撮影を開始された。
実際、戦争に敗けるとはそういうことで、殺されても犯されても文句は言えないというのが歴史の実態でもあろう。
年配の読者はご記憶にあるかも知れない。
敗戦の色が次第に濃くなる頃合い、亀井勝一郎は「大和古寺風物詩」(1943年:天理時報社)を発行する。
この本は53年に新潮社から再刊されるが、戦後の知識人・インテリゲンチャの一方の層に圧倒的共感を持って受け入れられた。
入江氏は、敗戦直後、偶然古本屋で求めた前掲書に刺激を受ける。
そこから、生涯を賭けた執念ともいうべき奈良路の撮影が始まっていった。
しかしながら、亀井氏の一連の著作は同時に厳しい批判をも浴びる。
いわく、「日本浪漫派」の功罪が未整理のままであるとか、歴史の実態を見ていないものであるなど。
その指摘もある面では正しくは思えるが、どちらにしてもオクターブ高い言葉がはびこる時代でもあった。
昭和21年、入江氏は、東大寺観音院住職・上司海雲、志賀直哉、広津和郎、亀井勝一郎、小林秀雄などの知遇を得る(亀井氏との邂逅は22年であるという説もある)。
日本の文壇を代表する顔ぶれである。中でも小林秀雄は、写真についてのいくつかの論評を残している。
ある写真評論家は、入江氏の作品の核を、ある種アマチュアリズムであると評していた。その表現には、いささか自らを別の次元に置いた高慢さが見え隠れしていると、私は始め反発を覚えた。
だが、いわゆる「分かりやすさ」、純文学ではなくて、大衆小説。
そういった文脈で辿ってゆくと、入江泰吉の写真が幅広い世代に受け入れられてゆき、ひとつの定型になってゆく過程も理解されてゆく。
「芸術的」と称される作品は、ともすれば独りよがりになり、多くのひとの共感を得ることが難しい。かといって、定型とされるものに媚びただけでは、絵葉書以上の感動は生まない。
これは、1950年代に流布していた「写真は芸術か」という問いかけに対する入江氏のひとつの姿勢でもあった。
■ 夜になって、私は奈良公園をうろついていた。
興福寺の五重の塔がライトに浮かんでいる。三脚を立て、80-200ミリで狙っていると、ひとりの男性に声をかけられた。
「センセイ、これはまたバルブってもんで撮るんですか」
答えていると、その50代の方は職人の親方らしく、宿で一杯やった後、若いものを連れて散策しているものらしい。
「中学校以来だもんな。やっぱりこの角度がいいんだな。ほら、おまえら、邪魔にならないようにしろ」
親方は塔を見上げている。すこし下がった辺りでは、額に剃りこみを入れた若者が二人、同じように口を開け、その先端を眺めていた。
2002_11_10
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