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金峯山寺
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■ 一般に大和の風景は、いわゆる風光明媚というものではない。
ゆるやかに山並みが連なり、やや単調な眺めの中に、ある種の趣を感じるというような、大人の解釈が要求されるものである。背後にある歴史を知るにつれ、風景から受ける微妙な趣は増してゆく。
ここ吉野は、平野部、いわゆる奈良の都を陽とすればある意味では陰、対に置かれて理解されるものかも知れない。
奈良の大和朝廷からは、吉野の国巣のひとたちが、特別な存在であり、性は純朴であると捉えられていたという記述が「日本書紀」に残っている。
み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくそ 雪は降りける
間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける その雪の時無きが如(ごと)
その雨の 間なきが如 隅もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
(万葉集:大海人皇子)
大海人皇子、後の天武天皇が「壬申の乱」の後に詠んだものとされる。
耳我の嶺とはどこか。吉野山中の金嶺山、大和と吉野を分かつ竜門山塊の中の細い峠、あるいは竜在峠付近の尾根ではないかと言われる。いずれも、飛鳥から吉野へ続くつづれ折りの道である。
大海人皇子は、病に倒れた兄、天智天皇からの皇位継承の申し出を「罠」であると看過した。皇位は皇后に、皇太子は大友にわたすべきものであると。そして自分は頭を丸め仏門に入りたいと辞退する。
雨まじり、雪まじりの山道を、皇子は吉野に向けて必死に脱出する。謀反の兆しありとすれば、兄弟であっても討たれてしまう。骨肉の相克である。
その一年後、東国に兵を整えた大海人皇子は、天智の子、大友皇子と一ヶ月に及ぶ武力による対決を経て勝利する。天武天皇として即位した。
その故か、大海人皇子に従った <う野姫>、後の持統女帝は、その在位中、都合三十一回も吉野に足を運んだという。
その後、世にいう「吉野における盟約」をも結ぶ。
■ 天皇が代々吉野に行幸されたのは、吉野山中が大和国中からみて、水清く山深い神聖な地であると特別の感慨をもって眺められていたからだろう。
俗界を離れたこの地に神が君臨し、吉野が、神と人とが交歓できる場として捉えられていたからではないかと言われる。
私はいつの間にか、金嶺山寺の前についていた。
急坂に、車を停めておくことができないでいる。
谷は深く、山は近く、早くも翳ってきた空を心配しながら、三脚を抱え急な石段を登っていった。
2002_10_28
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