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金峯山寺
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■ 吉野の金嶺山寺は、我が国、修験道の根本道場であり、中世の日本歴史の黒幕的存在だといわれる。
天武天皇と役小角(えんのおづぬ)によって白鳳元年に創建されたとされるが、資料をあたってゆくと、どうも分からないことも多い。
我が国の宗教史・仏教史の中で、修験道というのは永い間「異端」の存在であった。特に明治以降、宗派を軸とした仏教史の流れの中で、独立した位置を認められることはなかった。これは、明治元年の「神仏分離令」、続く五年の「修験道禁止令」によって決定的になったとされる。
そもそも、修験とは「修行得験」、苦しい修行をつんで超自然的な力を得ることをいう。得験のために山に入り、様々な行を重ねる修行者たちは「山伏」と呼ばれた。「伏は臥の義なり。山臥とも書けりとも見ゆ」と、江戸時代に行智は『木葉衣』に記している。
修験道の最盛期は、平安から鎌倉時代。山伏は僧兵と似て、軍事・政治の双方で大きな社会的勢力となった。「太平記」の弁慶は山伏姿である。多くの天狗伝説は山伏にその源流があるとも言われている。
修験道の開祖とされる役行者小角(えんのぎょうしゃおづぬ)には、様々な伝承が残っている。
曰く空を飛ぶことができたとか、人にとりついた怨霊を鎮めたり、鬼神を使役して様々な事業を行ない、末世の衆生を救うため金剛蔵王権現を祈りだしたりした。役小角は、悪人を化度するに地蔵菩薩や弥勒菩薩では役に立たず、憤怒の相を持った蔵王権現でなければならないとする。
爾時大會(そのときだいえ)に一人の明王有り、是大明王は大威力有り、大悲徳の故に青黒(しょうこく)の形を現じ、大定徳(だいじょうとく)の故に金剛石に座し、大智慧の故に大火焔を現じ、大智の剣を執って貪瞋痴(とんじんち)を害し、三昧の策を持して難伏(なんぷく)の者を縛す
(聖不動經)
2002_11_05
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