「夜の魚」一部 vol.88

 
 
 
■ 眼が醒めると早い時間でないことがわかった。
 ドアの向こうで音がする。暫くうなってから起き上がる。晃子がコーヒーを入れている。
「なんだかうなされていたわよ。その後イビキ」
 口紅をしていない。
「呑み込まれる夢をみたんだ」
「あら、そう」
 シャワーを浴び髭を剃った。剃刀が錆びている。すこし顎を切った。
 私は何をしているんだろう。これから何をするんだ。
 晃子に、吉川と連絡をとるように言った。奥山の力も借りるように。
「あなたはどうするの」
「わからない」
 溜め息をついている。
 
「ちっとも変わらないわね。昨日、わたし危険日だったのよ」
「うん」
「銃は持ってるの」
「いや」
 後ろの頭が薄く痛かった。晃子は生理が重く、中の一日はほとんど寝てばかりいたことを覚えている。コーヒーで薬を飲んだ。
「懐かしいって訳でもないわね」
「そんなに緩かったかな」
「なによ、下手な癖に」
 私は上着を着て外に出た。
 冬の空は明るく、すこし目眩がした。
 上着のポケットからサングラスを出し、階段を降りた。
 低い屋根が続いている。
 十年前と同じ眺めだ。交差点で車を待っていると、ふたつ向こうの路地に晃子が住んでいたモルタルのアパートがあったことを思いだした。

「夜の魚」一部 vol.87

 
 
 
■ そこからの自分の行動を私は旨く説明することができない。
 椅子から立ち上がり浴室に入った。
 するすると下着を脱ぎ捨てると、熱いシャワーを長いこと浴びた。
 ポンプ式のシャンプーで頭から躯を洗った。
 垢すりのタオルが柔らかすぎる。ドアを開け、上着のポケットから煙草を取り出した。風呂の椅子に座って漠然と吸っている。
 晃子が覗いた。
 何も言わないで眺めている。浴室から出ると、新しい下着があった。
 晃子のベットの脇に布団を敷いてもらう。
 髪は濡れているが、乾くのを待つ訳でもない。
 恐らく、今夜は北沢からの連絡はない。葉子の実家に電話をしてもほとんど意味もないだろう。さらわれた葉子がどのように扱われるのか、北沢の声で判断がつく。それに対抗する手段がほとんどないこともわかっている。
 酒のグラスと灰皿を傍によせ、布団の上にあぐらをかいた。
 
「ともかく、寝よう」
 暫くして晃子が寝室に入った。灯りが消される。
 胸とその下の下腹に指を滑らせ、くぼんだものをかき分けた。
 あらかじめ湿度ある沼のような重さが指に伝わる。
 緩いものの中に入ってゆき、ただ動いた。まわすこともせず。
 押さえた声が高くなる。脇の下から薄い匂いが昇っている。
 懐かしいのかどうかわからず、暫くして眠りについた。
 悪い夢をいくつかみた。
 
 若い時の自分が、同じような過ちを繰り返している。
 その傍に今の自分が立っている。
 夢が醒めるとまた夢に入った。
 それが夢なのだということはわかっている。
 眠っている自分の布団から長い髪の毛が細くはい出してきて、かけてある毛布を持ち上げてゆく。
 それを鋏で切ってゆくおかっぱ頭の女の子がいる。
 その子の眼はあいているが見えず、赤い着物を着ていた。

「夜の魚」一部 vol.86

 
 
 
■ ロシア革命の時のテロリストは、逡巡しながら人を殺したのだという。
 詩人の魂とテロリズムが両立できた時代もあったのだ。
 ポーランドにあった工業的人種廃絶の強制収容所に、カポと呼ばれる囚人頭がいたことを私はふと思いだした。
 彼等は仲間を統制するために選ばれ、時には本当の看守よりも残忍な手腕で同じ国の人々を進んで殺していった。そうでなければ自分の身が危うくなったのだ。
 北沢がカポであると思っていた訳ではない。
 溶剤を使い、顔もわからなくする方法があることを何処かで聞いたことがある。残った骨は粉砕器にかけるとただの粉になるのだそうだ。そうした方法が実際に可能かどうか、私にはわからなかった。けれども、拉致されて国外に連れ去られればそれで事は済んでしまう。
 北沢はそういって脅す。
 日常的なもの言いになっているところが不気味だった。
 奴は生っ粋のサディストなのだろうか。どうでもいいことだ。
 恐らく葉子は拉致された。フロッピーには何が入っている。
 二杯目を注ごうとした時、晃子が遮った。
 座っている私の傍に立ち、腕を廻して頭を抱いた。
 私は柔らかいセーターの胸に顔を埋め、声を出さずに言葉を発した。
 誰が何を試そうというのだ。

「夜の魚」一部 vol.85

 
 
 
■「はじめまして。いつぞやは連れが大変失礼しました」
 北沢の声だ。
 テロリストと話したことは一度もない。
 声には知性が出ると、ある写真家が言っていたことを覚えている。
 北沢の声にはある程度の教養が滲んでいるかのようにも思える。
 錯覚だ。
 一度に酔いが醒めてゆく。
 カーテンの影から下を覗こうとした。
 通りの向こう側、僅かに離れたところにスモールを付けた車が一台停まっている。
「そう、車の中からなんですよ。あなたとは始めてですねえ。これからそこに泊まるんですか、いや、彼女はいい女ですよ」
 何を言っているのか、女のことだ。
「それで、何の用だ」
「いや別に、唯の挨拶ですよ。ああ、そうそう、葉子が大変お世話になったそうで、これから連れて帰りますから」
「なんだって」
「わたしの元に戻りたいというものですからね、今傍にいるんですよ」
 北沢の声は低い。ゆっくりと、そして深い。
 その深さの中に濁ったものが混ざっている。
「ところで、明日お時間ありますか。あなたの持っているフロッピーを持ってきてくださいよ。葉子の顔が薬で溶けてしまったのをみるのはあなたも嫌でしょう。場所はまた電話します」
 そこでプツリと電話が切れた。
 窓を開けベランダに出るとハイビームにした車が加速するのが見えた。
 奴はその中にいたのだ。
 恐らく葉子がさらわれた。
 藤沢の外れの実家には母親だけがいると葉子は言っていた。
 その番号は手元に無い。フロッピーだって。なんのことかわからない。
 私は椅子に座り、ウィスキーをグラスに注いだ。
 窓から風が入り、髪を乱した晃子が立っていた。

「夜の魚」一部 vol.84

 
    二一 湿度ある沼
 
 
 
■ 晃子はワインを半分以上あけていた。次第に酔いが廻ってくるのがわかる。結局、まともなことはなにひとつ話さなかった。
 葉子のこと、奥山のこと、フィリピン共産党の武装集団、遠く連なっている赤軍やそれと結びついている様々なボランティア組織のこと。北沢とは何者なのか。ひとつひとつは別々なのだが、それらは細い糸で繋がっている。
「泊まってく」
 晃子が唐突に尋ねた。時計をみると十二時に近い。
 寝ましょうか、と聞かれているのかと思った。
「ベット、ひとつしかないんだろう」
「どうかしら」
 すこしだけ心が乱れた。振幅が顔に出たかも知れない。
「やめとくよ」
「彼女に悪いから」
 そうじゃない。別に悪いとも思わない。その気がない訳でもない。ただ、なんだかモラルに反するような気がするのだ。そんなことを口にするのが嫌なので、黙っていた。
 
 その時、電話が鳴った。晃子が椅子から立ち上がり受話器を取る。
 晃子の顔色が変わる。カーテンを開けて外を見ようとする。
「北沢がきてるわ」
 黒い瞳が大きく見開かれている。
 私は受話器を晃子から受け取った。耳にあてると低い声が笑った。

「夜の魚」一部 vol.83

 
 
 
■ 手くらい洗うだろう、と思ったが黙っていた。
「白いセダンを買ったわ、あなたの嫌いな小さなベンツ。それで買い物にゆくのよ」
 
 今のように世の中が変わりそれに馴れてしまう前、私たちは何か夢のようなものが目の前にあるのだと思っていた。
 それは小奇麗なマンションだったり、女子大を出た妻であったり、イタリアのダブルのスーツであったりした。
 様々なものが膨らみ、私の仕事もそのお零れに預かっていたのだ。
 膨らみきった後、内蔵のようなものがはみ出し始めている。
「ある時ね、高いスーパーの喫茶店でお茶を飲んでいたのよ。隣に同じ歳くらいの奥さんが何人かいて、話しているのが聞こえたわ」
 霜降りの牛肉は旨い。
 遠くから外車に乗ってその店に買い物にゆくのが結婚に成功した女の証のように思われていた時がすこし前まであった。
 駐車場には守衛がいて、車を値踏みしながら丁寧にお辞儀した。
「帰りに車をぶつけて、二週間入院したわ。退院してから、隣の病室に入っていた若い営業マンに誘われたという訳」

「夜の魚」一部 vol.82

 
 
 
■ 女ふたり、男のことを話す以外に何がある。
 あのとき私は吉川と倉庫の階段に腰掛けていた。
 小さなステンレスのカップでウィスキーを飲み、吉川の話を聞いていた。はじめ、葉子は晃子に会うことを嫌がった。
「彼女は他人の心が読めるようだわ」
 晃子が三杯目を注いだ。
「どうして別れたんだ」
「だから、わたしが浮気をしたのよ」
「シャクだから傍にいた男と寝たの」
 
 シャク、という言葉を今日はよく聞く。
 便利な言葉のような気もする。恨みがある訳でも流しているのでもない、その合間を縫ってサラリと言う。
「気持よかったか」
「すこしね」
 晃子の前の夫は真面目な勤め人だった。
 杉並に部屋を買い、週に一度は夫の実家に戻って食事をするのが習いだった。
「べつにね、マザコンって訳でもないの。大事にしてくれたしね」
 小さな灰皿を机の脇に置き、晃子が細い煙草を吸った。
「寝室があってね、そりゃ新婚だから。彼が念入りに手を洗っているの、済んだ後でね」

「夜の魚」一部 vol.81

 
 
 
■「すこし飲みましょうか」
 晃子が棚から背の高いグラスを取り出した。
 バカラではなく、国産の最も硬質な種類のグラスだった。脚に色がついていないところが晃子らしい。
 麻のコースターを引きその上にグラスを置いた。
 手際よくコルクを抜き、白いワインを注いだ。
「あなたはウィスキーの方がいいのよね」
 小さなグラスを取り出してその横に置く。後は自分でやれというのだ。
「このコースター、自分で作ったのよ。接着剤で張り付けたの」
 女ってのは面白いもんだな、と私は思っていた。どれが本当の姿なのか簡単でもない。
「倉庫に寝てた時ね、彼女がいたでしょ。話してみると案外素直なのよ」
 吉川が撃たれた夜のことだ。
 晃子と葉子はビジネスホテルのような倉庫の管理人室で眠ることになった。
「どういう関係なんです、って聞かれたから正直に答えたわ。遠い昔の男、って言ったの」
「遠い、ね」
「十年も前のことだわ」
「するとね、今でも好きなんですか、とこっちを向いて言うの。その眼がね、挑戦的という訳でもないのよ」

「夜の魚」一部 vol.80

 
 
 
■ 晃子の部屋の玄関には小さな額縁が飾ってあった。
 幾何学的な模様が灰色の下地に何本も重なっている。
 私は部屋に入った。ソファの上に鈍い赤色の布が被さっている。全体をくるむように、その色は三十を過ぎた女の部屋には強すぎる印のようにみえた。
 晃子の唇が動いた。
「この上だったのよ」
 冷ややかに見下ろしている。
「わたしは眼を開けてソファの模様を見ていた。ナイフでなぞられるまではね」
 おそらく、そういう姿勢を取らされたのだろう。晃子の下唇には二本の深い筋がついている。決して小さいとは言えないが感情のこもったかたちをしている。
 
「買いかえるのもシャクだから、布を被せたの」
 それが赤い布であるところがしたたかさというものだろう。
 私たちはコーヒーを飲んだ。向かい合っていると懐かしい気配もしたが、それが錯覚であることはわかっている。
「すこし整理をしようか」
 私はその時、晃子も同じ次元にいるのだと考えていた。何か知らないものに巻き込まれているのだと思っている。
「あの葉子って娘は、どんな子なの」
 珍しく晃子が直裁に聞いてきた。
「寝てるから恋人って訳でもないだろう」
「ライターの癖にツマラナイことを言うのね」
 晃子はまだ苛立っている。
 私は医局の友人から送られた文献の話をした。見事に切断されたいくつもの断片があって、それを目まぐるしく替えてゆく。
 どうしたらその場に一番適応できるのか、現状を認識する能力は基本的に高い。けれども、そうできるのは内部が見事に空白だからであって、本人はその空白に何処かで気付いている。であるから、長期的には適応も底の浅いものになってしまう。揺れながら異性や薬物に依存することもある。
 旨くは説明できなかった。
「でも、それってわたしたちだって同じじゃない。ひとをモノや部分のように扱うことはあるわ」
 私は、そもそもどれが本当の姿なのか掴み難いのだと言った。
「そこが魅力なのね」
 晃子はコーヒーを飲む。大きな黒い瞳である。
「そうかも知れない。なんだか理詰めで考えても無駄のような気がするんだ」
「歳をとったのよ」
 晃子が小さなステレオに手を伸ばした。スイッチを入れるとほんの僅かに音のずれたピアノが小さく聴こえた。
 
「エバンスは甘いわね」
 外が暗くなった。自分のことを言われたのかと思った。

「夜の魚」一部 vol.79

 
    二〇 一月
 
 
 
■ 一月は乾いた空と時折の雨で始まった。
 入院していたせいで仕事が溜まっている。私は誰もいない事務所で二つのディスプレイを眺めていた。灰皿がいくつか山になった。通りが静かになって夜が過ぎ、気付かないまま新年になっていた。
 雨は思いだしたように降り、すこし経つとすぐにあがった。空気は乾いたままだ。
 連休の前日、私は同じように深夜まで画面を眺めていた。
 すこし歩き、車を拾って部屋に戻った。あれ以来、自分の車にはほとんど乗らなくなった。ヒーターがうなるのを待ち、薄いコーヒーを入れようとした時、電話が鳴った。
「あら、いたのね」
 晃子だった。
「去年のイブの夜ね、北沢から電話があったわ」
 微かに躯がこわばるのがわかった。
「近いうちにまた顔をみせてくれ、って言うの」
 北沢は生きていた。サーブは北沢のものだが、運転していた男の肌は褐色だった。
「声を覚えているのか」
「そりゃね」
「彼女、葉子さんは今どこにいるの」
「今は実家だろう、住所まで聞いた訳じゃないが」
「どうしてあなたって誰にでも一定の距離をとろうとするの」
 晃子はすこし苛立っている。時計をみると午前三時に近い。
「眠れないのか」
「そう。また無言電話があったのよ」
 私は冷たいベットに腰掛け、晃子の話を一時間程きいた。
 イブの夜は、退院した吉川が銀座の外れで食事を奢ったのだという。吉川はまだ酒が飲めず、晃子がなにやら高いワインを一本飲み干した。
「送らせて欲しい、って真面目な顔して言うのよ」
 ドアの前の情景が目に浮かぶ。帰る姿も。
「部屋に戻って着替えていたら電話が鳴ったの」
 それが北沢だったのだ。
「わかったよ、午後になったらゆくから」
 そう言うと、上着だけを脱いで眠りに落ちた。