「夜の魚」 Introduction.


 
    Introduction.
 
 
 
■ 本牧の外れの引込線から右に曲がるとその先は行き止まりだ。
 背の高いコンクリの壁をよじ登ると、黒く粘る海が見える。
 海とはいっても実感はない。薄い雨に雲が浮かんでいた。
 壁の横にぽつりぽつりと車が駐まり、車高を落とした白いセダンのボンネットの上に若い男が座っている。
 光るものを持っていて、近づくと、釣り竿を照らす電灯のようだ。
 伸びかかったパーマの頭を斜めに、バンパーに右足をのせ、考える格好で竿の先を照らしている。
 標識が半分取れかかっていて、「国際埠頭」と書いてある。
 海は見えない。
 音楽もきこえない。
 
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「夜の魚」一部 vol.106

 
 
主要参考文献
・「新フィリピン事情 崩壊と再生」 西田令一著 日中出版 1989
・「フィリピン新人民軍従軍記」 野村進著 晩聲社 1981
・「日本赤軍派 その社会学的物語」 パトリシア・スタインホフ著 木村由美子訳 河出書房新社 1991
・「対談 革命的左翼運動の総括 いま語っておくべきこと」 川島豪・塩見孝也著 新泉社 1990
・「灰とダイアモンド」 イェジイ・アンジェイェフスキ著 川上洸訳 旺文社文庫 1978
・「青年期境界例」成田義弘著 金剛出版 1989
・「ボーダーラインの心の病理ー不確実性に悩む人々ー」 町沢静夫著 創元社 1990

「夜の魚」一部 vol.105

 
 
 
■ ラジオからパット・メセニーの曲が流れている。
 車は今にも分解しそうな音をさせ、一四〇で走っている。
 この小さな車ではこの辺りが限界だ。
 高速の繋ぎ目を乗り越える時の収まりが、フランスの味を残している。
 空港に向かう道は空いていた。空が赤くなってゆく。
 葉子は上海にいった。
 先日、何枚もの写真が送られてきたのだ。
 大きな川に沿っている公園で、沢山の人が沈む太陽を眺めていた。
 街の中心部には建設中のビルがいくつもあり、竹を組んで職人がその上を歩いていた。
 葉子は伸びた髪を上でまとめ、中国服を着て脚を組んでいる。
 随分大人びてみえる。
 私は事務所をやめた。
 入院していたことと、何かがはっきりしたような気がしたからだ。
 葉子の父は、「上海貿易公司」という会社をやっている。
 どんな男なのか知ってみたいという気分がある。
 彼の紹介で向こうの代理店に嘱託として暫く席を置くことにした。いつまでになるのかはわからない。主にドイツの企業相手の仕事になるのだと聞いている。細かい打ち合わせもあって、一度向こうに渡ることにしたのだ。
 自由化政策の影響で、上海は往年の活気を取り戻している。
 狭い部屋に大家族が住んでいて、早朝の公園は子供と老人達で一杯になるという。若夫婦のために、朝の時間を空けるのだ。
 
 私は車の速度をゆるめ、途中のパーキングに入った。
 自動販売機で煙草を買い、腰を屈めた。
 思いだしたこともあったが、かたちにならなかった。
 
 
「夜の魚」 完

「夜の魚」一部 vol.104

 
 
 
■ 北沢は捕まらなかった。
 ポルシェの中には上着だけがあり奴の姿はなかった。
 夜の海を泳いだのだろう。
 葉子が持ち出したフロッピーには、人名と販売経路の一部が残されていた。
 北沢が口を滑らせたように、現役の閣僚に連なる名前もあった。勿論、捜査はその段階まで及ばなかった。北沢を捕らえることができない以上、情況証拠だけでは無理なのだ。
 中国本土とロシアの辺境から香港を通る麻薬ルートは、その一部が休眠状態となっただけで今も健在である。
「公洋貿易」という会社は一年も前に登記が抹消されていた。
 事務所も空であり、机と外された電話だけが残っていた。
 現在、日本に残るCPPのメンバーは宗教団体の非課税の部分に眼をつけているという。背後に仕掛人がいるのだろう。科学や超心理などの名目をつけ、終末論と来世の繁栄をうたう幾つかの新・新宗教は人間の受動性の部分を巧妙にくすぐっている。本部の指導を離れ、一層過激となったスパロー・ユニットの一部はまだ日本に潜伏したままである。 
 ともあれ、何かが終わったとも思えない。
 始まったという訳でもない。
 吉川は相変わらず晃子を口説いてはフラれている。
 怒られることを楽しんでいるようでもある。
「とうとう官憲の手におちたな」
 と、警察病院のベットに寝ている私を見下ろしていた。
「俺は自由な個人として協力しているまでだ」
 奴が奥山を連れてきたのだが、何処まで知っていたのか今となってはどうでもいいのだ。

「夜の魚」一部 vol.103

 
    二八 エピローグ
 
 
 
■ 秋がきた。
 空が高くなり、上着を手に持つことがなくなった。
 私は煙草を軽いものに変えた。すこしだけ髪を伸ばし、古くて安いフランスの車を買った。煩くてドアもよく閉まらない。暫くはそれでも良いのだと思っている。
 あの後、私と葉子は警察病院に運ばれた。
 私は大部屋だったが、葉子だけは個室だった。
 真冬の横浜港に見事な亀甲縛りのまま裸で飛び込んだのだから、熱を出しても不思議ではない。葉子は軽い肺炎になったのだ。
 水上警察の船の上ですぐに毛布を被ったが、縄を解くのに時間がかかった。乗組員が遠慮したのか、結び目を捜して手間どったのだという。縄は股の間にも廻されていたのだ。
 私は踵と肋骨にヒビが入っていた。肩甲骨の上が割れ、止めてある金属が歪んだ。銃弾はそこで向きを変えたらしい。金属を取り替えたが、肉が盛り上がるにはまだ暫くかかる。
 葉子は薬を抜くために特別の治療を受けていた。
 治療自体どんなものかは知らないが、薄い耐性が出来ていたのだという。覚醒剤も含まれているのだろう。
 奥山が見舞いにきた。
「黙っていて、申し訳ありません」
 
 彼は厚生省管轄の麻薬取締捜査官だったのだ。神奈川分室に属している。
 桟橋近く、水上警察署の四階にある小さな部屋で私は何度か事情聴取を受けた。
 組織は別だが捜査は合同でなされたらしい。警視庁と神奈川県警との仲がそうであるように、厚生省と警察庁が協同で事件の解決を図ろうとすることは、通常ほとんどあり得ない。
 役人特有の縄張り意識のおかげで、各種の広域捜査の場合には円滑にゆくことの方が珍しいと言われている。今回のようなことは極めて異例であり、背後に何か別の力が働いていたのかも知れない。
 覚醒剤に関しては、コントロールド・デリバリー、いわゆる、「泳がせ捜査」ということが特例として認められている。私は囮として使われていた訳だが、不思議に腹も立たなかった。
 松葉杖をつきながら入り口の階段を昇る時、彼は眼鏡のツルを何度も持ち上げて眺めていた。決して手を貸そうとはせず、それが流儀なのだろう。
 窓に格子のある部屋で私は何度かカツ丼を食べた。

「夜の魚」一部 vol.102

 
    二七 魚
 
 
 
■ 頭から入ったのか、よく覚えていない。
 尖った水が染み込んでくる。冬の海は案外明るい。
 すこし上のところに大きく開かれた葉子の脚がみえた。
 コートが脱げている。黒い部分とそうでないところとが奇麗だった。
 葉子は夜の魚のようにゆっくりと泳いでいる。
 左手でヘルメットを取った。
 葉子の胸で見事に交差している縄を掴んだ。
 皮ジャンの上に着た救命ジャケットの紐をひっぱり、空気を充填した。
 浮かんでゆく。水が白くなってゆく。
 顔を出した。
 息をする。
 葉子が傍にいた。
 口を開けている。
 空は黒い。細かな破片のようなものが降ってくる。
 雪だ。
 私と葉子は真冬の横浜港に浮かんでいた。
 冷えると思ったら雪になっている。
 振り返ると、C突堤のマーカーが見えた。
 岸壁は並んだ警察車両のライトで一杯だった。赤い筋が交差している。
 後ろから一本の光が近づいた。
 浮き輪が投げられ、私たちは引き揚げられた。
「水上警察です」
 と、奥山が言った。

「夜の魚」一部 vol.101

 
 
 
■ シフト・ダウンしながらブレーキを握った。
 後輪がロックして車体が振れた。
 メーターは八○から下がらない。
 丸い尻が眼の前にある。
 脇はコンクリのブロックだ。
「飛ぶのよ」
 葉子が耳もとで叫ぶ。
 アクセルを開いた。
 鈍いショックがあった。
 ポルシェのなだらかなテールに乗り上げた。
 そこで立ち上がり、ハンドルを手前に引いた。
 軽くなる。
 空だ。
 ベイ・ブリッジが低いところにみえた気がした。
 何台もの車のライトを浴びている。
 W1Sは大恐慌の時、エンパイア・ステートビルによじ登った愚かな猿のように吠えていた。
 落下した。

「夜の魚」一部 vol.100

 
 
 
■ 視界に赤い光が入った。いくつもある。
 警察車両だ。包囲するように、突堤の一番先をめざしている。
 サイレンを鳴らしている筈だが、風と古いエンジンの騒音で耳に入らない。
 ポルシェを追う。
 突堤の外れが近づく。
 角のところ、点滅する岸壁のマーカーのあたりに北沢は向かっている。
 まっすぐだ。そのままゆくと海だ。
 奴は落ちるつもりか。
 距離が縮まった。
 ポルシェの丸い尻がみえる。
 カレラ、と書かれたエンブレムすら読めそうだ。
 北沢がブレーキをかけている。また横になるつもりか。
 ハンドルは切らない。
 ポルシェのブレーキは信じられないくらい効く。助手席の者が鞭打ちになるくらいだ。
 ガクン、と速度が落ちて突堤の外れで止まった。
 葉子が何かを叫んでいる。
 間に合わない。
 そうだ、前は海なのだ。

「夜の魚」一部 vol.99

 
      二六 空
 
 
 
■ 左手でもう一本の瓶を取り出した。
 葉子に握らせる。
 オイルライターに着火し、運転席に投げるよう大きな声を出した。
 葉子が投げる。届かない。
 ダブルタイアの辺りが燃えた。トレーラーは止まらない。
 その時、列車が停まる時のような音がした。
 コンテナの真上に貨物船の錨のようなものが落ちて揺れた。
 ビル程の高さの、オレンジ色に塗られたクレーンが動いている。
 歩くような速度で近づいている。
 錨と思ったのは伸びている重い滑車だ。
 滑車はゆっくり揺れ、トレーラーの窓を叩き割った。
 ガラスが飛び散る。避けなければ即死だろう。トレーラーはそこで止まった。
 自走式クレーンの運転席は比較的低い部分についていた。中程、ちらりと人影が見えた。
 吉川だ。
 白いトレンチを着込んだ吉川が歯をむき出して笑っている。
 北沢のポルシェと交差した。奴は額から薄い血を流している。
 ライトの中で大きく口を開け、何事かを叫んでいる。聞いてはいられない。
 北沢のポルシェと並んだ。
 セカンドで六千まで引っ張った。サードに入れ右手を持ち換えた。
 震動が酷い。分解しそうな音をさせながら、古い直立二気筒は回転を上げる。葉子が腹を掴んでいる。太股がはだけている。鈍い加速だ。
 レンチを左手で掴んだ。古い単車にはシート・ベルトがあって、その脇に挟んであったのだ。
 ポルシェがすぐ脇にきている。丸いフェンダーをレンチで叩こうとした。
 外れた。ミラーが飛んだ。
 北沢のポルシェがあっさりと抜く。
 金属の擦れ合う音をさせ、みるみる遠ざかった。