不感帯 9.
■「不感帯 3」(緑坂 vol.6888)に書いた「自由映画人連盟」(JES)は岩崎昶を筆頭として結成されていた。JESは映画界における戦争責任者のリストを公開し、その追放を主張していたという。
これは「日本映画とナショナリズム 1931-1945」(森話社刊)という書籍の中で、山本直樹氏が註の部分に記載している。
註から読み始めるヒネた読者もいるなかで、しかも往々にして本文より面白いことが多いにも関わらず、私は律儀に本文を眺めていたのだった。
■ 岩崎昶(この項全て敬称略)といえば60-70年代、映画理論・評論の書籍を多く書かれた方である。中でも岩波新書の「映画の理論」などはベストセラーになり、当時半ば一般教養の範疇にあったと言われている。同新書の続編に「現代映画芸術」がある。
野間宏の「真空地帯」という映画も、独立プロで岩崎が製作を担当していた。 また、確か写真の分野でも「リアリズム写真論」などを語られていたような記憶がある。写真と言えばドキュメンタリー、スナップの名手木村伊兵衛ですら自分は報道写真家だと名乗っていた時代のことである。
ちょっとばかりひっかかるものがあって、私は資料を探してもらっていた。
とても全部に目を通す時間はないが、岩崎昶は1903年東京生まれ。
東大の独文科から、まだ誰もやったことのない映画評論の世界に入った。大正デモクラシーの時代に青年期を過ごした都会っ子らしく、戦後そのダンディな姿を某雑誌の編集部で何度か見かけたと川本三郎氏は「映画は救えるか 岩崎昶遺稿集」(作品社:2003)の前書きに記している。
日本プロレタリア映画同盟、略称「プロキノ」の委員長。ちなみに初代は今東高である。
プロキノ解散後、映画法に反対の論陣を張り治安維持法により逮捕される。
投獄は一年二ヶ月。小さな子どもを抱えてのことであるからこれは辛い。
■ 1941年。保釈後、岩崎は満映の東京支社に嘱託とて在籍し戦争の期間をやりすごす。
満州映画協会の甘粕理事長は、国内でパージされた左翼崩れを平気で迎え入れていた。昭和7年の川崎第百銀行大森支店襲撃事件、いわゆる大森事件で逮捕された大塚有章なども出所後満州に渡り、始めは図書館員、その後満映に入っている。
それについてアラカンこと嵐寛寿郎が、当時の満映の様子を半ば呆れながら京都弁で語っていたことを覚えている。鞍馬天狗の声でだ。
甘粕がリアリストだったから、と片付けてしまえばそれまでだが、上下左右、一定の処まで辿り付くと何処かしら相通じるところがあるようで、この辺りのドラマというか人間模様は、あくまで部外者として眺めた場合、なかなか興味深いところがある。