「緑色の坂の道」vol.2919

 
    行方。
 
 
 
■「序破急」の流れというものがこの国にはあって、色々と難しく書くこともできるのだが、簡単に言うと女を口説くとか寝るとかいう際に相通じるものである。
 流れ、というのは妙齢の躯の中で絶えず揺れている月の行方のようなもので、水瓶が満つる時を待ち、これから何処へゆこうかと考える。
 考えはしないのが妙齢の本質でもあり、上から降りてきたかのように、これで良かったのだともうひとりの自分に同意を求めたりする。

「緑色の坂の道」vol.2918

 
    唇がわれた 3.
 
 
 
■ とはいうものの、それは孤立を意味していない。
 社会性というのは、様々に解釈もできるし、絶えず再構築されるものだけれども、俗になることを怖がっていると、作品が直立できないところがある。

「緑色の坂の道」vol.2917

 
    唇がわれた 2.
 
 
 
■ 暫く眺めていると、芸術と芸術っぽいものの違いが分かってくる。
 なんとも言えないのだが、後者には僅かに無駄がある。
 無駄とは何かというと、微妙な自己愛であったり、それが友人達との会話だったり、一定の枠の中で互いに遊んでいるかのような風情であった。
 
 
 
■ 一歩外に出ると、風が冷たい。
 ぽつんと居ることができるというのはある種の才能かも知れない。

「緑色の坂の道」vol.2915

 
    薔薇の原価 3.
 
 
 
■ クラシック音楽にそう強い訳ではないが、フルベンのじいさんの指揮したものは好きだ。
 東京の冬のような音がする。
 
 
 
■ 例えば随分と前のクリスマスの夜、確か細かな雨が降っていた。
 今のように青と白の電飾になる前、点滅の回数が緩やかだった頃、表参道の少し先に車を停めた。
 指先が絡まる訳だが、そんなことをするのは、やはり時期だったからだとしか言いようがない。
 
 
 
■ 東京は今、埠頭の傍まで車で入ることができない。
 埋立地の鍵のかかっていない柵をこえ、遠く羽田の灯かりなどを眺めて漠然とする。
 捨ててある車の中を覗き、まだ使えるのに、と思っていたこともあった。
 弾奏が落ちていたことがあって、恐らくモデルガンだろうと思うことにした。

「緑色の坂の道」vol.2914

 
    薔薇の原価 2.
 
 
 
■ 黒ビールを嘗めながらこれを書いている。
 緩やかに戦争が近い訳だが、威勢のいいことを言う方々は直接戦場にはゆかない。
 若者が死ぬのである。
 
 
 
■ 先ほど、ヒルズの傍にある店に所用あって出かけた。
 これでもかという程に人が歩いている。
 今日のために磨かれたメルセデスや、バスほどもあるアメリカのトラックがヒルズ参りをしている。
 少しずつ小金を巻き上げるためにはカラクリのようなものが必要で、そのカラクリをブランド戦略と呼ぶ場合もあるが、つまりは、ほぼその実態は問われない。
 バブル以後、私たちの国はそれに慣れてしまっているのだろう。
 
 
 
■ 愛国心をどう構築するか、というのは広告屋の仕事である。
 どんな世界であれ、片足を深く突っ込みながら片方で醒めている自分がいたとして、だからどうしたという気にもなっている。

「緑色の坂の道」vol.2913

 
    薔薇の原価。
 
 
 
■ というコピーを書いたことがある。
「甘く苦い島」の中にも再掲した。
 この言葉にひっかかるひとがいれば、そのひとは多分緑坂の読者に近い。
 
 
 
 
■ 外に出ることにした。葉子はそれ程飲んでいない。
 葉子は皮のコートを羽織った。口紅が赤い。地下の駐車場にゆきBMWを出した。葉子に運転をさせる。山手通りに曲がってゆく。
 私は鞄からカセットを出し機械に入れた。
「なに」
「フルベンというじいさんが指揮するオペラだよ」
「芝浦にゆこう」
 イブの夜の山手通りは混んでいた。千葉や多摩ナンバーが並び、渋谷からの坂を下るのに一時間かかった。
 拍手の音が入っている。バス・バリトンの声が低く響いている。彼は悪役で、幽閉された囚人を謀殺することを命ずる。
「訳がわからないわね」
 葉子は薄い不満を口にした。しかし、ボリュウムを絞ることはない。
 私は何か別のことを考えていた。酔いは鈍いものに変わった。
 私は葉子に心を読みとる能力があるのではないかと思っている。
 今、ワイダをもってくるのは何故か。
 葉子を眺めていると、切断された鮮やかな断片が印象に残る。そうしたシーンはいくつも思い出すことができる。しかし、それらは分断されていてひとつのものとして統合されることがない。
 
 借りてきたビデオの中に鑑別診断をする場面があって、それは人間かそうでないのかを曖昧に区別する技術だった。友人から送られた文献のリストには、いくつもの質問形式が例文として載っていた。「ボーダーライン・スケール」と呼ばれるもので、該当するものが多い程疑わしいということになる。
 
「私は周囲の人や物事からいつも見放されているかんじがする」
「最初にあった時はその人はとても立派にみえるが、やがてガッカリすることが多い」
「他人は私を物のように扱う」
「残酷な考えが浮かんできて苦しむことがある」
「私の内面は空虚だとおもう」
 確か、そのような質問が五十程度並んでいた。試みにテストしてみれば、恐らく私も該当の範囲だろう。
 
 ポーランドには沢山の強制収容所があって、そこでは何十万というユダヤ人やジプシーが殺された。人種、民族という曖昧な境界であったが、線を引き、ひとつの民族を地球上から根絶しようとする思想は何処から出てきたのだろう。
 ベートーベンの、「フィデリオ」は難解で一般受けしないと言われる。確かにロマンチックでもないし、誇張されてもいない。暗く、聴いていると辛くなるかのようだ。
 車が流れ出した。葉子がセカンドで引っ張った。舌先を伸ばしていた時の表情は微塵もない。葉子は自分を物のように扱っているのだと気付いた。

「緑色の坂の道」vol.2912

 
    イブのフルベン。
 
 
 
■ 昨日今日と、何処へいっても混んでいて、それはとてもうんざりするものだが、日本はそういう成り立ちなのだからやむを得ない。
 隣のホテルで打ち合わせをすませ、成程、夜になるとJAZZの演奏にチャージがついていた。
 ウェスとケニーを足して二で割ったようなギターで、そう嫌いじゃないです。
 十年近く前、小説を何本か書いた。
 三作、枚数が一定までまとまれば単行本に近くなると指摘され、三部まで進めたが未刊になっている。
 他の仕事が忙しくなったからだが、果たしてどう考えるべきか。
 
 
 
■ 適宜、再掲してみる。
 これは恵比寿に例のビルが出来たばかりの頃で、今なら六本木ヒルズというべき按配だろうか。
 水平に動く歩道が今も話している。
「立ち止まらないでください」
 大型のレンタル屋の隣にはホテルがあって、最上階のレストランでは各種パーティもできるのだが、大理石の柱はハリボテだった。
 私は指ではじいたりして、狐に似た担当女性に嫌がられた記憶がある。
 彼女はブルガリの腕時計をしていた。
 
 

    十八 渇く
 
 
 
■「松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき」
 葉子がベットの上で低い声を出した。
「なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを」
 どこかに記憶がある。埃を払うと鈍い金属版が覗ける。
「銀座で映画をやっててね、観たのよ」
「灰とダイヤモンドか」
「ワイダってひとが書いたのかとおもってたわ。本を読んだら難しくて最後まで読めなかった」
「でも、はじめのところだけは覚えたの」
 アンジェイェフスキだったと思う。小説の扉に、ノルビックの書いた詩が引用されている。
「灰の底ふかく、燦然と輝くダイヤモンドの残らんことを」
 私は、「自由」という言葉につまづいている。葉子が口にすると、何か意味があるかのように思えた。
「自由になりたいのか」
 私は葉子に尋ねた。
「ずっと、そう思っていたような気もするけど」
 空調の音が低くしている。部屋は乾き、窓からは隣にあるビルの灯りがみえている。葉子が予約したのは、恵比須にある人工的な街のホテルだった。
 駅から続く水平のエスカレーターがあり、それはいつも警告の声を流している。少しだけ開いた土の中に痩せた樹木が埋まっていて、そこには小さな電球が無数に纏わりついている。照明を浴びた建物の前で、若い男女が写真を撮っている。座り込んでいる若者もいる。
 人工的な街の中にあるデパートで酒とグラスを買い、部屋に潜り込むことにしたのだ。
「でも、自由って何かしらね」
 私は葉子が撃った中国女のことを考えていた。
 火花はトカレフの銃口から短い間、白く出ていた。