不感帯 12.
■ 相手は二人組の若者である。
「岩崎さんですか」
「そうです」
「部長さんですね」と念を押す。
普段局長と呼ばれることはときたまあっても、部長という役職にない岩崎はそのとき「のどにひっかかるような予感」を覚える。
若者は外に立っているもう一人に合図をする。男がツカツカと近寄ってきて
「バカッヤロ!」
と、食いしばった歯の間から洩らすように低くうめく。身体の後ろから何かを取り出して岩崎をなぐる。なぐって逃げていく。
■ 敗戦の翌年、その夏のことである。
当時の岩崎は日本映画社の製作局長をしていた。
元々、日本映画社は1940年に施行された映画法によって設立された国策団体であった。「日本ニュース」、大本営発表、と字幕に大写しになったニュース映画を見たことのある方も多いだろう。従来民間各社で製作されていたものが非常時ということで統合されたのである。
戦後、元の日映は戦犯団体として一旦解散。新生日本を代表するという意気込みで株式会社として再建された。岩崎昶が製作局長に赴任する。聖戦完遂のためのプロバガンダの手法は民主化にも応用される訳である。
当時GHQ総司令部は矢継ぎ早に指令を出していた。公職追放、財閥解体、農地改革など岩崎が言うところの「占領の蜜月」の時代である。
それは長く続かず、いわゆる逆コースと呼ばれる揺り戻しがすぐ後にくる。
■ 岩崎はその日、小学校二年になる娘を連れ帝劇に「白鳥の湖」のバレエを観にいっていた。岩崎の一文にそう記してある。昭和21年8月28日。
一行に満たない記載だが、帝劇か、と私はやや感慨深いものがあった。
終戦から一年後の東京の姿を私は知らない。当時の記録フィルムや写真、またはいくつかの映画などから想像するのみである。
議事堂の前が畑だったのは何年のことだったのか。有楽町のガード下に夜の女がたむろし、上野の地下道には戦災孤児が溢れる。坂口安吾の安吾巷談が新興の青線地帯を探訪していた頃、愛娘を帝劇に連れて行けるというのは、嘘か真か定かではないが、やや恵まれた立場にあったと言えるかも知れない。戦前の山の手文化の継承という意味合いもある。
もっともこの「白鳥の湖」全幕日本初演は歴史的なもので、焦土の中の公演自体、新生日本を象徴する出来事とも言えた。
GHQ進駐軍の本部があった第一生命ビルと帝国劇場は眼と鼻の先である。
当時映画・演劇関係を取り仕切っていたのはGHQの中にあるCIE/民間情報教育局、課長はデビット・コンデであった。
コンデについても近年様々な研究がなされてきているが、「占領の蜜月」を指導した者の多くは、ルーズベルト以来のニュー・ディール左派だったと後に岩崎は書いている。