不感帯 13.
■ チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」と、日本刀で岩崎を切りつけた若者の「バカッヤロ!」という言葉が、エイゼンシュタインのモンタージュ理論で構成されている。
トーキーであるから、背後にはもちろんフル・オーケストラの演奏が流れている。
■ 当時銀座には大安組という団体が存在した。安藤明が組長である。
新生日本で華々しいスタートを切った「日本ニュース」、日本映画社であったが、経営は火の車だった。配給先がないのである。
資金を融資しようかという動きがあり、岩崎と大安組とに接点が生まれる。
しかし水と油。交渉は決裂してしまう。
「昨年だったと記憶するが、『裏返しニッポン日記』という随筆をこの誌上(註:文藝春秋)に発表して、終戦のとき米軍によって退位を命ぜられる危機にあった天皇を救ったのは自分がウィロビー少将に懇願したからである、ということからはじまって、自分が岩崎昶を斬らしたという噂はまったくのデマで(略)、要するにマーク・ゲインの『ニッポン日記』はその裏返しが真実であると力説したのが彼である」(前掲;「映画街道の刺客」178頁:作品社;初出「文藝春秋」臨時増刊映画読本 1953年)
と岩崎は書いていた。
広島の原爆の後始末、厚木航空隊青年将校の鎮圧説得など、岩崎に安藤は武勇伝を語る。大安組は銀座にGHQの高官を接待するための「大安クラブ」を設けていた。旧「分とんぼ」という名称。岩崎はそこで歓待を受ける。
この一文には、新宿の親分尾津喜之助の名前も出てきていた。
若者二人が「岩崎は外国人とぐるになって赤の宣伝をやる非国民だから斬ってきた。当分わらじをはくからたのむ、と無心にきた」と尾津親分が週刊朝日に書いていたというのである。
■ 終戦から5年8年の頃の日本はまだまだ殺伐としている。記憶は生々しい。
事件の真相は分からず終いだった。今ならとても考えられない世界の住人が、当時のメディアには頻繁に登場していたことに驚くが、最近はただ巧妙になっているだけなのかも知れない。
ネットで簡単に調べてみると、安藤明という人物についての書籍は出ていた。
彼を本当の国士と持ち上げる風もあって、その古書を求めてみようかという気にもなったが思いとどまる。
大陸で活動していた特務。そういった表現がこの岩崎の一文には出てきているのだが、先の満州映画協会の甘粕ではないがかなり奥は深い。戦争は兵士、軍隊だけでは成り立たないからである。
そもそも、映画法に反対して投獄された岩崎が、紆余曲折はあるにせよ敗戦後、映画法によって作られた日本映画社の製作局長になっていくということ自体、一筋縄ではいかないお話なのである。