不感帯 11.
 
 
 
■ 岩崎昶は二枚目だった。
 手元で眺めている写真は1973年くらいのもので、となると岩崎70歳程のものだが、上原謙をやや骨太にしたような感じである。同年輩の頃の上原よりシャンとしているかも知れない。
 今の基準からすれば長身とまではいかないが、痩躯そして二重。左の眉から眼にかけ縦に深い瑕が残っている。これについては後で記すが、川本三朗氏が岩波ホール支配人高野悦子氏の言葉をひいているのもあながちというところである。
「お書きになるものが立派だったし、それになにしろ超弩級の美男子でしたから。昔から映画業界三大美男子というと必ず名前が挙げられたんですよ」(前掲;15頁)
 普段なら愚かな反発から、け、てな気分になるところなのだが、いや確かにいい男だったのかも知れないな、と素直に認める気分になっているのが不思議だった。
 

 
■ 伊丹万作も元は俳優をしていただけあって結構な男っぷりである。
 小津監督も頑固なモダンボーイの風情を漂わせている。最後まで独身を通したというのも、作風とはまた別に分からないでもない。
 当時の映画人、それなりにいい顔をしていたような気がするのだが、その理由を辿っていくと収集がつかなくなるのでやめにする。
 
 
 
■「なにか鈍い鉛色のものが光ったと感じたとたん、ビシリッと鞭でうたれたような激しい痛みが私の顔を走った。一瞬、私はグラグラとしたらしい。半開にした水ぐらいの勢いで血が指の間から板敷の上に流れ落ちていた。妙に冷え冷えとした、静かな感じだった。
私はうろたえていた。こういう時に、私は妻の、あるいは一般に日本の女のかもしれないが、度胸のすわり方と実際的な能力とに驚いた。それ以来私は女房に頭があがらないのであるが(略)」
 
 昭和21年8月28日、岩崎昶は日本刀で切られる。
「傷は左の額の生えぎわから、左眼のまぶたを切り裂き、頬から口許まで、顔をたてに長く割って」いたものだった(前掲;「映画街道の刺客」172頁:作品社;初出「文藝春秋」臨時増刊映画読本 1953年)。