不感帯 10.
■ さて、その岩崎昶が伊丹万作のことをどう評価しているかというと、優れた個性・才能としてはベタ誉めである。
前掲岩崎の遺稿集の中「日本映画史」、無声映画の昂揚期と題して1930年辺りからの事情が語られている。
まずは小津安二郎。続いて、伊藤大輔。この後、衣笠貞之助が並び、トリに伊丹が置かれている。曰く
「伊丹は伊藤大輔と同郷(松山)同窓で、その関係から映画に入ってきたのであったが、彼は映画の脚本家・演出家としてすぐれていただけではなく、思索と文筆においても別に一家をなすだけの人物であった。そのことは戦後、そして彼の死後に刊行された『伊丹万作全集』が何よりも雄弁に物語っている(略)。
1932年(昭和7年)の『国士無双』がサイレント時代の彼の代表的名作となった。
これは当時の講談調の時代劇映画のパロディーであるが、その中で、世に剣聖として喧伝された名人がその名をかたるニセモノに手もなく打ち据えられて降参してしまい、ニセモノの方が強ければニセモノこそホンモノではないか、という設問を呈し、権威とか偶像とかをまっこうから否定する思想をあらわそうとした」
■ この続きのまとめが岩崎昶らしい。
「これは今日では何ということはないが、天皇制絶対主義に草木もなびかされていた当時にあってはあきらかな危険思想であった。伊丹のウィットとナンセンスのかくれ蓑にごまかされて、検閲官がこの映画を見のがしたのは、日本映画にとって大きな幸運であった」(前掲;49頁)
伊丹が文筆の人として「一家をなしていた」という表現は中野重治に習うもので、ついニヤリとしてしまう。
ちなみにこの「国士無双」の主題は、戦後の貸本漫画などで繰り返し変奏されていたような記憶があった。何という題名だったか、白土三平やつげ義春の初期の作品に、強いことを懸命にアピールしなければならない浪人剣客のお話があったような気がする。ニセ武蔵。それも商売であると。
戦前、満州事変後に絶大な人気を誇っていた吉川英治の「宮本武蔵」に対するアンチテーゼかと思っていたのだが、反権威、反骨の根はもっと前から繋がっていたということかも知れない。