つげ兄弟とアンポ 2.
■ 何時だったかつげ義春さんについて書かれた書籍を読んで、あらあら見事に一杯喰わされているな、と思ったことがある。
書かれたのは大学の先生らしく、作品とその私生活の重なり合いを素朴に感じられているかのようだった。
旦那、あれは芸でっせ。
何時も自転車にサンダルで、地面に擦れて紐がズズッと切れる訳ないじゃん。
■ 一方、旅日記シリーズだったかの解説を伊集院静さんが書かれていた。
ここで原典を引かないのはこのところの反動である。
「昔はこういう男たちがあちこちにいた、ぞろぞろいた」
場末の温泉のストリップ小屋、そこに小さい子どもがいて、洗濯物が掛かっている。めんどくさいからここに棲みついてしまおうかなと夢想する、といったようなお話である。もちろん子連れの踊り子と関係を持ってのことだ。
めんどくさいから、という表現は私が付与したものだが、端的に言えば極道である。次の瞬間、何をしでかすか分からない。
それは犯罪という方向ではなく、今あるものを全部捨てて別のものになってしまっても一向に不思議ではないといった、可能性と発作的流浪のお話だった。
実際にはそういうことはなかったのだろうが、作品の中に往々に見られる停止した暴力と性の描き方は、文化的な層に属していると看做される方々から最も遠いところにあるもので、だからこそ異質にも魅力的にも写ったのだろう。
■ 伊集院さんの指摘は慧眼だったと時間が経つにつれ思う。
匂いを嗅いだのだ。
畢竟、なかなかのものというか「タラシ」なのであって、この意味は各自調べてみてください。
表現の世界には、そういう部分が色濃く隠れてもいる。