不感帯 2.
■ 伊丹万作全集は昭和三十六年に筑摩書房より刊行されている。
監修者には、志賀直哉、伊藤大輔、北川冬彦、中野重治氏らの名前が並んでいた。
全集の面白さは中に挟まっている「月報」の短文にあり、ここでは片岡千恵蔵、山田五十鈴さんなどが監督の思い出を語っていた。また、朋友の伊藤大輔監督が、万作が46歳で息絶える日の様子を抑えた筆で記してもいる。
月報、題字のデザインが万作のご子息、伊丹十三氏。
十三氏は当時まだ俳優にはなっていなかった筈である。
■ 第一巻の〆というか後書きは中野重治氏である。
ご存知のように、中野氏は左翼系の文学者・政治家。戦前には検挙や転向の経験もあり、その後も一筋縄ではいかない活動をされてきた方である。
中野氏はこのように書いている。
「戦争がすんで間もなく、この人は『戦争責任者の問題』という文章を書いた。これは公表したものである。しかし私は、それを、戦争中のある時期に書かれた『戦争中止ヲ望ム』という文章と結びつけて読者たちに読んでもらいたいと思う。そこに、この人が実行の人であったことがたしかに見て取られる。表現の節度ということも、彼自身が実行者であったからである」(中野重治:伊丹万作全集:467頁)
「戦争中止ヲ望ム」という短文は、漢字とカタカナで記された非公開の文章だった。
「オソラク四月ニハ敵ハ本土上陸ヲ断行スルダロウ。シカモ我々ハヤスヤストソレヲ許スダロウ(略)。戦国時代ノゴトキ斬込ミ戦法デ三十ヤ五十殺シタトコロデ近代兵器ノ殺傷力ハソレラヲ数十倍ニシテ返スダロウ。現在ノママデ戦争ヲツヅケルカギリスベテハ絶望デアル」(前掲:182頁)
と、伊丹万作は後の歴史からみて至極当然のことを記している。
当時、勿論公開は不可能である。媒体もない。隣人に漏らすこともできない。そういう考えを抱いていることが知れたとたん、特高なりなんなりが結核で療養中の万作の身柄を拘束する可能性もかなりの確率で高かったからである。
治安維持法を始めとする言論統制の網の目を、伊丹は当然知っていたはずだった。
戦争中、心血を注いだ伊丹の脚本は情報局の検閲にかかり、二度没にされている。
■ しかし、上記中野重治氏の発言が、その後の伊丹万作の評価を決定付けたとする人は多い。
伊丹のどこが実行者だったのか。この辺りの独特の修辞法が、昭和三十年代という時代の空気そのものだが、爾来伊丹の「戦争責任者の問題」という一文は、様々な立場から不思議な持ち上げられ方をしていく。