あずさ弓 6.
■「私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうか分からない(略)。十一月には家を出て十二月には自殺する。それがあなたの運命だったと妻はへんな確信を持っている。『あなたは必ずそうなりました』と妻は言う。でもそれよりいくらか早く、審(さば)きは夏の日の終わりにやってきた」
(「死の棘」島尾敏雄著:新潮社:5頁)
■ 島尾さんの名作である。その出だし。ここにはその後に続いていく狂乱の予兆のようなものが全て含まれている。
南方の巫女の系譜。イタコというよりはノロやユタに近い存在の、妻の妬心を中心に話が進んでいく。
救いがないな、春夏秋冬女は怖い。
浮気はばれないようにしなくちゃな、と思って読んでいたのは30代の半ばくらいだったと思う。が、実はこれは巧妙に仕込まれた物語世界の部分もあって、リアルタイムにお話が進行していた訳ではないのだった。そうでなければ作品として集約されないからだが、ところどころはっとするようなユーモアも美しい描写もある。
例えばこう。
「夜が明けた。風雨は勢いを増していたようだ。妻は寝足りたようすなのに、私は深い倦怠から這いあがれない。寝床を出ると、妻に導かれて裏の蓋をされた井戸の上に、小岩の家でしたと同じように、ひとつまみの塩と一束の線香を置いた」
(前掲:424頁)
■ この箇所のどこが美しいのか。旨く説明はできないのだが、一時は狂ったかにみえた妻に導かれ、半ば禊のように盛塩をする男。彼はその世代の中では突出した知識人の一人でもある。
『あなたは必ずそうなりました』という予言は怖い。
そして何故かは知らないが、最も自分をよく見ているだろう女に、そう言ってもらいたい気分があることを識るのである。