コタツ龍之介 7.
■ それらはともかく。
甘粕正彦理事長自決後の満州映画協会は、ソ連進駐、その後の撤退を経て八路軍の指揮下に入った。
八路軍と言えば毛沢東である。満映は中国共産党に接収され「東北電影制片廠」と名称が変わっていた。
ただ、当時中国では国民党軍との内戦が一進一退であり、1947-49年頃は機材を山中に隠し、各地の鉱山で肉体労働に従事していたと前掲「内田吐夢の全貌」には記してある。
具体的にはどういう暮らしだったのか。
余裕がなく調べ切れていないが、中国での生活のことを内田監督は積極的には語らなかったという映画論を読んだ覚えもある。その気持は分からないでもない。
国策・宣伝映画に転用できる技術を持った人間、まして監督という立場では、なかなか帰して貰えなかったというのが本当のところだったのでははなかろうか。言うまでもなく新興中国にとって有用だからである。
■ 1950年6月から53年の7月までが朝鮮戦争。
ダグラス・マッカーサーが解任されたのが51年春。
53年10月、内田監督は京都府舞鶴に引き揚げてきている。結核が悪化していた。
こうして年号を並べていくと、結構な含みがあるような気もするのである。