コタツ龍之介 5.
 
 
 
■ 内田監督はその後、中国に8年間抑留されている。
 日本に戻ってきての第一作が「血槍富士」(1955)であるが、以後続々と話題作を発表し続けることとなる。
「そう考えるのは、中共にいたからですか」
 など、例えば対談の中で周囲の人たちにあけすけに質問されたりもしていて、内田監督はその場では直接には応えていなかった。
 確かに前述の未発表原稿の中には、「帝国主義」などという単語が唐突に挿入されていて8年間どう凌いできたのかが伺える部分もある。
 しかし戦前も、長塚節の「土」などを映画化しているから、思想的には一定の下地があったというべきかもしれない。
 だいたい満州映画協会というところが面白いところで、どちらかと言えばリベラルな人間が吸い寄せられていった。
 これは甘粕正彦の個性によるものだったと指摘されているが、角田房子さんが書かれた「甘粕大尉」(中公文庫など)を読んだ限りでは、その奥にあるものが今ひとつこちらの実体にならなかった覚えが私にはある。
 周辺の理解が足りなかったかもしれないのだが。
 いずれにせよ、映画の世界に限らず、壮士から左翼崩れまで、当時の満州というのはごった煮であった。