コタツ龍之介 4.
■ 前の緑坂にある、視点のない「骨の眼玉」というのは陸軍病院で行われた治療実験のお話である。
大正9(1920)年、若き日の内田吐夢は移動性盲腸炎で陸軍病院に入院していた。内田監督は若い頃、俳優・役者をやっていたくらいなので当然見た目も良かった。タッパもある。召集され、配属されたのが近衛師団だったのだ。
近衛師団の建物は現在も皇居のほとり、北の丸辺りに残っている。
■ ある日、三宅坂の陸軍病院のベットの隣にひとりの初年兵が入ってくる。
初年兵は兵隊つらさに省線電車に飛び込み自殺を企てたが、幸い手首だけで命拾いをして病院にかつぎこまれた。
そこで、当時軍事医学の研究課題となっていたとされる、「包帯のない場合の患部露出治療法」の実験台となったのである。
脱走は不名誉なことであるから軍では一定の処罰を受けるのが常だが、この場合表向きはもちろん志願である。
■ ペニシリン、抗生物質の普及していない時代のことである。
傷はあっという間に化膿した。
包帯も何もかけない切りっ放しの腕がむき出しになっていて、そこには針金でできた枠がとりつけられ、腕は天井につり上げられている。
化膿するたび、腕は次第に短くなっていく。
手首だけだったものが、五寸くらい短くなる。こんどは第二関節がなくなり、片腕は肩の付け根までとなる。
剣道で言えば「小手」刻みというところだろうか。
「切り口はまるでブリか鯛を輪切りにしたように、赤い肉が盛り上がって、真ん中の白い骨が、視点のない底ひの眼玉のように、丁度私を睨むような位置にあった」
「貧血した苦しい息を吐く度に、肉と骨が動いて中から液のようなものがわき出した」(前掲:214頁)
初年兵から事情を聞いた内田監督は、このときはまだ青年であるが、昂奮して眠れぬ夜を過ごす。
これを「骨の眼玉」と題して後に記しているのだが、生前では未発表であった。
この初年兵は多分死んだだろうと監督は書いている。