コタツ龍之介 3.
■ 続きである。
内田監督はこのように書いている。
「そして、その翌朝三通の遺書を永井荷風の「濹東綺譚」(ぼくとうきだん)の頁にはさんで自ら世を去ったのであった。その時─計らずも私は廊下の外で二人の側近と立ち話をしていたが─呻き声を聞いて『やった』と思い、義母がこさえてくれた焼塩を食塩水にして飲ましたところ、嚥下(えんげ)したので、馬乗りになった吐かそうとしたが、見る見る顔面が蒼白になって、小兵で栄養の足りた胸が呼吸を止めてしまった」
(前掲:「内田吐夢の全貌」240頁)
宴の翌朝、甘粕正彦は隠し持っていた青酸カリを服用したのである。
■ 内田監督が焼塩を持っていたことにも軽い驚きのようなものを覚えるが、これは何処にいっても自動販売機が唸っている今の世に慣れたこちらの堕落だろう。
「若き日、陸軍病院で見た初年兵の腕の、視点のない骨の眼玉と─私の股の中で死んでいった甘粕正彦の不気味な死顔の大写しは─私の長い人生のフィルムではあるが、取って継ぎ合わせることのできるモンタージュである」(前掲)