Untitled 2.
 
 
 
■ 21世紀の今の眼で眺めると、アーバスの作品はそれ程ショッキングなものとしては映らない。
 その後、写真の表現は半ば行きつくところまでいってしまった、という側面もあるからだろうか。
 例えばネットの世界におけるSNSを中心とした膨大な私的ドキュメント。
 これがどういう意味を持っているのかを考えてみるのも面白いとは思うけれども、まなざしが申し訳ないが陳腐なことが多く、緩慢な崩壊のプロセスといった感想を持つことも時々はある。
 
 
 
■ アーバスの写真を暫く眺めていると「セイント」という単語が浮かんでくる。
 被写体は無名の人物たちだが、彼らは懸命に生き、計算もせず、どこか無垢なところがあった。
 カメラを持っていることがまだ特別だった時代ということを差し置いても、被写体に向き合う時というのは、それが人物だった場合、相当の力量が必要である。
 相手はこちらのことを瞬時に判断してしまう。
 この辺りの気配のやり取りというのは結果的に作品に出るもので、彼女にそれが可能だったのは、元々持っていた育ちの良さのようなものかとも思う。
 お行儀の良し悪しというのか、それが結局本人を苦しめもする訳だが。
 
 
 
■ 全く脈絡はないけれども、私はフランソワーズ・サガンのことを思い出していた。年齢は10ほど違う。第二次大戦が終わった時に22歳と10歳。サガンの方が年下である。サガンの人生もまた、半ば戦後史と重なり合うところがあった。