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■ いささか古いものではあるけれど「戦争責任・戦後責任 - 日本とドイツはどう違うか - 」という本がある。朝日選書506.1994年。
ここではハイデッカーやトマス・マンのことが載っていた。
また86年辺りの「歴史家論争」というものが紹介されている。
「歴史家論争」とは、つまりナチスのユダヤ人絶滅政策は歴史上他に比較可能なものだったのかどうかということが論点の、一見アカデミックな装いを呈してはいた。
けれども、内実はかなり政治的な色彩を帯びており、スターリンの粛清やポル・ポト派の残虐行為などと比較することによって、ナチスの行為そのものを相対化・希釈化しようという目論見があったと評されているものである。
これに対し社会哲学者のユルゲン・ハバーマスらが激しく批判を加え、反批判も入り乱れ大論争となっていた。
その後の社会的な影響も大きい。
■ 例えば「ジェノサイド」という言葉がある。
これは元々ギリシャ語の種を示す語、genos と、ラテン語の殺害を意味する語、cide とを組み合わせた造語である。
ポーランド出身のユダヤ人法学者、ラフェル・レムキンがナチの暴力を追及するために用いたのがその嚆矢だとされている。
国連では「集団殺害罪の予防と処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)が48年に採択され、国際法上「集団殺害罪」には刑事罰が課せられるに至った。
民族であれ集団であれ、大量の人間を組織的物理的に排斥する論理やシステムというのはどこからくるのか。それを支える法や科学とは何だったのか。
■ そんなことを漠然と考えていると、例えばネット上に「凶悪犯罪を犯すモンスターは社会に一定数必ず存在する」などという意見をみつけた。
社会政策あるいは刑事政策上、既に過去のものとされている社会的ダーウィニズムや優生思想の変形ではあるが、本人には恐らくそうした自覚はないのだろう。
階層化された社会がそのほころびをちらちらと見せ始めると、無意識のエリート意識が顔をのぞかせる。自分たちは社会や人間の進歩に寄与する側であると無邪気に自画自賛しているのである。
そうした心理の背後には、繰り返し指摘するまでもなく、水面下における強烈な不安というものがある。