蛸と芝居は血を荒らす 7.
 
 
 
■ 書生芝居、「己が罪」「金色夜叉」とくれば、これはもう新派の芝居に決まっている。
 大正14(1925)年の大阪毎日新聞社発行「芝居とキネマ」によれば、道頓堀の角座で小織桂一郎(さおりけいいちろう)が牧師モリソンを演じていたとされている。小織は越後、新潟県柏崎出身。明治2(1869)年生まれ。「雨空」初演当時は53歳ほどである。
 となると、この「雨空」の長平は関西新派の重鎮、小織をモデルにしていた可能性もあったろうか。
 
 
 
■ ほんまかいなぁ。ト、推理小説ごっこをしていたら、万太郎自身が長平のモデルは小堀誠だと書いていた。
「雨空のこと」という短文の中でである。
 大正11年4月の初演でも小堀が長平役を演じている。
 今のように志を得る前、方々を転々としていた頃の寂しい小堀。
 小山内薫の「堀田の話」「逸話」という短編のモデルも実は小堀だったと万太郎は書いている。
 小堀は1885(明治18)年東京生まれ。初演当時が37歳ほど。
 となると「生国は越後の新発田」という長平の台詞とはあわなくはなっていく。
 実にこのあたりが演劇、芝居の綾なのかもしれない。
 幾人かの人物のプロフィールや体験を誰か一人に集約させていくことはありうる。また、自らの芝居に出演した小堀に対してのリップ・サービスだったのかという気もするが、本当のところはよくわからない。
 
 
 
■ それにしても、この「雨空のこと」という短文はなかなかエラそうな文章であった。
 初出は大正11年6月「新演劇」という雑誌である。
 観劇者と万太郎との対話形式になっているが、実際にそうだったのか定かではなく、もし万太郎が一人で書いたのだとすれば、したたかというか後の志向性の一端が顕れてもいた。落ちの付け方に癖は出ているものだけれども。
 具体的には、配役の俳優を褒めたりけなしたり、女形の花柳章太郎はもっと評価されるべきだと書くところ。また、自分の芝居は贅澤なものだと言ってのけるところなどは、いい度胸というか心臓なのである。
 ま、国民文芸界の理事ですからね。
 小島政二郎が指摘していた「いやみ」が、ある意味で万遍なく漂ってもいる。長平役のモデルとされた小堀は、芝居にコクがないと最終的には貶されてもいた。
 しかし、どうということもなく。
 半ばこうでなくっちゃいけない、とも思うのである。