蛸と芝居は血を荒らす 6.
 
 
 
■ 間。
 というのがいい。
 三味が入り、お末と長平の掛け合いが始まる。
 今はこうして浅草の路地裏でうだつを抱えている長平の昔語りが始まる。
 
長平 それはずっと前の話だ。‥‥生国は越後の新発田で洒落に芝居をしてゐる時分のこった。
忘れもしない、十一月の末、空っ風のびゅうびゅうふくさなかに大御難を喰ってね‥‥命からがら飛び込んだのが岩井なにがしという女役者の一座さ。‥‥壮士の方ではと首を傾げやがったから、今でこそ、こんな、尾羽うち枯らしの、書生役者の仲間には入っているが、恥をいえば、これでも、堀越の旦那の呼吸(いき)のかかったことのある身体だ。‥‥足のうらにはまだ檜の匂いが残ってゐるんだ。‥‥かう、まあ、いったもんだ。
お末 でたらめねえ。
 
 
 
■ 堀越の旦那。檜の舞台ってことであるから、市川團十郎のことを指すのだろう。はったりをかました訳であります。

長平 昨日まで「己が罪」のモリソン、「通夜物語」の平助。‥‥乃至は「金色夜叉」の仕出しに出る孤児院の先生をやらしたら、當時、どこにも真似手があるまいといはれた奴が、それ覚えてか君さまの、袴も春の朧染。‥‥おぼろげならぬ殿ぶりを。‥‥いくらなんでも、此奴、莫迦でねえから気がささあね(略)。
だが、背に腹はかへられない。‥‥ここを先途と思ひきり白く塗ったね。
(前掲:215頁)
 
 長平は女芝居の一座にまんまと潜り込む。そこで一年余りを過ごす。
「袴も春の朧染」とは常磐津、「忍夜恋曲者」(しのびよるこいはくせもの)、将門の一節だろうか。
 この辺り当時の芸の世界の一般常識、伝承なのだろうが、恥ずかしながらその辺りの知識が私には全くないのである。
 
 
 
■「雨空」の初稿は大正9年6月。万太郎31歳。
 上方、大阪から戻ってきた後である。
 当時万太郎は浅草区北三筋町に両親とともに棲み、最初の結婚をしていた。
 新派との関係がこの頃から深くなる。市村座で「女系図」の舞台監督を務める。万太郎にとってはじめての演出である。
 大正11年4月、新派の研究劇団、新劇座が「雨空」を上演。
 お末に扮した女形の花柳章太郎は、国民文芸会から賞を贈られた。
 万太郎は大正7年、小山内薫などと並び国民文芸会の理事となっている。
 翌大正12年、関東大震災。