蛸と芝居は血を荒らす 4.
■ 薄曇りのなか、大勢の人が連れ立って歩いている。
川沿いの道を花が満開なのだ。
今年の花は思いのほか白いような気がする。
車の中で誰かが言った。
と、考えてみれば桜ほどいやみな花はないのではないか。
ある意味で俗そのもの。葉をつけずいきなり花が群生する様などは、ちょっとあざといだろうよ、そりゃ。
と言いたくなるところもある。
■ 円喬か円右かという、万太郎と小島の口論に分け入るつもりはない。
落語の世界も奥が深く、昨日今日齧ったばかりで何程のことが分かるかというところもある。その事情は芝居についても同じだ。
だが、この場合の小島の好みは、いささか偏狭ではないかという気が私には薄くしていた。
芝居は俳句ではないし、また芭蕉の句のすべてが水のように透明かと言えば、決してそんなこともなかったような記憶もある。
先の万太郎の句で言えば、白足袋を穿くと、余寒の白さ(を穿く)を二重に重ねているところは確かに気障である。小島言うように一種の「いやみ」が匂ってくる。
ぞろりとした二枚目が客席の反応を見ながら一句、という気配すらあるのだが、一転それが芝居の世界での出来事ならば全く問題はないような気もしてくるのだった。
長谷川一夫がこの句を呟けば、客席はうっとりするだろう。
■ 舞台、芝居というのは嘘の世界である。
伝統芸能と言われる歌舞伎や文楽、能舞台なども、ちょっと眼を凝らして眺めると相当に仇なところがある。どこかしら「けれん」が入っているものだった。言い方を変えれば、あざとい部分は表現の中に本質的に含まれていると考えた方がいいのかも知れない。
舞台の構成も、デザインも色使いもである。衣装ひとつとってもそうだった。
聖と俗の差配、つまり虚のあわいようなものにひとは酔うのであって、舞台で散る桜吹雪が本物かどうか、観客は意識することはないのである。