蛸と芝居は血を荒らす 2.
 
 
 
■ 踏み込むのは野暮だろうと前の緑坂に書きながら、実は小島政二郎の「久保田万太郎」という作品を読んでいた。性格である。
 芥川、鴎外、荷風、鈴木三重吉、直木三十五、高田保などを題材にした評伝や作家論というよりも「実名小説」と呼ぶのが相応しい一連の作品群である。
 愁眉は荷風と万太郎を語った二作だが、直木三十五がどうしてあんなに女にもてたのかを追求していく筆も、捨てがたい味があった。
 
 
 
■ 小島政二郎の万太郎論は、小島の文学観または芸術論に支えられている。
 小島自身が純文学を志向しながら、大衆小説で名を馳せたというところからか。大正期の人間主義や人生派的見地が、いささか生の形で出ているところもあり、そこが読者にとってはどっちつかずの魅力に映る。
 時と場合によってはある種のおかしみとなって視えてくることもあるようだった。
 例えばこんな記載がある。
 
 彼の人情話の魅力について言い忘れたことがあった。芭蕉ほどの名人になると、危所に遊んでも跡に何も残さない。が、万太郎位の名人位(い)では、どうかすると「しな」を残す(略)。あの作意が、そこまで苦心に苦心を重ねて自然に自然にと持って行った人情話の底を浅くしてしまった。土手の手から水が洩ったのだ。
 俳句でなら、
 
 白足袋の余寒の白さ穿きにけり
 
 か。この句、言い得て妙だが「余寒の白さ」に何かが残る。ハッキリ言えば、一種のいやみだ。
(小島政二郎著:小島政二郎全集第3巻:鶴書房:昭和42年発行:264頁)