国策の果て 2. 
 
 
 
■ 敗戦から20年。
 昭和41年の暮れ、第三次在外財産問題審議会は、引揚者が外地で失った財産を国が補償する義務は「法的にはない」と答申する。
 しかし、引揚者が生活の基盤を根こそぎ奪われたことなどを考慮し、一定の特別給付金を出すことが妥当だと主張した。
「引揚者団体全国連合会」と大蔵省の交渉が始まる。
 そしてこの問題は、後に最高裁で争われることとなる。 
 
 
 
■ 角田さんの同書から引用を続ける。
 
「いつまで戦後だと思っているのか。戦争の被害を受けたのは、満蒙開拓民だけではないぞ。こうした言葉を吉太郎は何度か浴びせられた。
引揚者はすでに立ち上がり資金をもらっているではないか。原爆被災者の援護、空襲で死んだり家を焼かれた人々への救援(略)、引揚者ばかり勝手なことをいうな」
 
「違うのだ。全く立場が違うのだ。と、吉太郎はいいたい。
おれたちは国策だといわれて満洲へ渡り、敗戦直後には肉親や多くの仲間を無惨に殺され、その上、やっと築いた財産は国が賠償に当てて他国へ引き渡してしまったのだ。
内地で戦災にあった人たちも気の毒だ。だがおれたちの立場は、それとは全く違うのだ。国が済まなかったと頭を下げて、在外財産を補償するのが当然ではないか」
(前掲:「墓標なき八万の死者」角田房子著:277-278頁) 
 
 
 
■ 吉太郎と松三というのは、作家の角田さんが創り上げた引揚者の典型を抽出した人物である。
 シベリアに送られていた吉太郎は向こうで赤化教育を受けたのか、やや理屈っぽい。補償問題に全力をあげてはいるが、痩せ、仲間うちからも遠ざけられている。
 松三といえば、再婚の勧めにものらず、満州で8年の間孤児であった武夫少年と二人で暮らしている。仕事は炭焼きである。
 武夫は敗戦の時に12歳。それから学校へもいかず、今では文盲に近い青年になってしまっていた。