■「それで」
 私はグラスに口をつけた。十五年もののスコッチの筈だが味に濁りがある。つまりはそういうことなのだ。
「ご存じのように、この上海という都市は中国の龍の眼と言われています。香港や東京なんか問題にならない」
 北沢が話し始めた。
「わたしもこの街にいくつかの会社を持っている。香港やロシアにもね。アラブの友人もいます」
「だから何だ」
「葉子のお父様には気の毒なことをした。わたしが葉子に連絡を取ることを随分嫌うものでね。お粗末な話なのだけれども、写真をとった男がネガを逆さに焼いたみたいなんですよ」
 爆弾の装着を誤ったと言いたいのだろうか。それより、葉子の父は北沢の存在を知っていることになる。
 
「上海、龍の眼の街で、覚醒剤を大量につくろうっていうのか」
 北沢は煙草を取り出した。香港の女優が躯を斜めにし、細いライターで火をつける。太股がのぞけた。
「中国はもともと、アヘンの国ですよ」
 確かに北沢の言うとおりだった。
 アヘン戦争に始まり、中国の近代史にはどのようなかたちであれ、アヘンの栽培と密売が密接に関わっていた。旧日本軍も特務機関を通じてアヘンによる膨大な利益を得ている。これは旧財閥系商社も加わった国家的な計画であった。一時の蒋介石や中国共産党も、青幇らを利用し自らの権力と資金を確固たるものにしようと試みた。青幇は上海のアヘン世界を牛耳っていた。
 
 中国とアヘン、とりわけ上海とアヘンとは、歴史の裏面において決して無視することのできない大きな流れを作っている。
 私は片肺をつぶされた奥山のことを思った。
 横浜黄金町の古いビルの一室で、奥山は蒼白な顔色で私を見上げた。
 粗悪な覚醒剤を大量に打たれ、時々心臓がとまるような状態で放置された冴という女のことを思った。冴はこの街の夜の女だった。
 彼女の膀胱には半透明のビニールの管が差し込まれ、意識のないまま今も病室に眠っている。性器の上にはKという文字がナイフで抉られている。
 私はグラスをみつめた。
 フロアからボサノバが流れている。
 
   あなたは月のようにわたしを照らすわ
   わたしは水の底からあなたをさがすの
 
 恋の歌のようだ。旨い英語とは言えない。低い拍手が鳴り、フロアは暗くなった。
 私はグラスをテーブルに置いた。
 大きな音がした。テーブルが濡れる。
 
「正当化しても無駄だ。おまえはこの酒のようにまがいもんだよ」
 私は北沢の顔をまっすぐにみた。