■ 何をするでもなかった。
ただ歩道を歩いている。大きな通りの向こうには鉄製の橋桁があって、狭い車線を車が忙しくゆききしている。
「まってよ」
葉子が後ろから追いついた。
「なにを怒っているの」
説明しても仕方ない。大抵はそうだ。
私は外灘に面した通りに立ち尽くしていた。遠くで蝉の声がする。
「ここは暑いな」
「そうね」
とぼとぼとホテルの方角に戻った。部屋に戻りたくない。車できたかと葉子に尋ねると、そうだと答えた。
「鍵をかしてくれ」
私はEタイプのエンジンをかけた。
混雑をかき分け、高速に乗った。
上海の街の周辺には急速に高速道路が整備されている。地下鉄も部分的に開通しているという。
十二気筒のエンジンはトルクの塊だった。旧式のトルク・コンバーターは踏むと僅かなスリップがある。
タイムラグの後、背中から腹を押されるような加速に移った。
ストロンバーグのキャブだと思っていたが、そうではなさそうだ。排気ガス規制の複雑な配管を外し、吸気からその出口まで単純な一本の線で結ばれている。その音だ。シリーズ?と同じSU型のキャブを使っているのだろう。
低く、くぐもった音が長いボンネットから響く。スミスのメーターは一二○マイル、二〇〇キロを指している。微かに車体が浮いている。ハンドルの感触が薄いものになっている。
高速にはほとんど車の姿はなかった。途中、日本製の大型セダンとドイツ製の前輪駆動を抜いた。追ってはこない。
私はEタイプの細身のウッド・ステアリングを触っていた。八時二十分の位置に置くのが正式な作法だという。コーナーは指先で送るのだ。
葉子は助手席で黙っていた。奥行きの狭いシートに斜めに座り、まっすぐ前をみている。
黄色と黒の標識が眼の前に迫り、次第に道は細くなった。先は工事中になっている。
私はアクセルを緩め、車の惰性にまかせた。
小さなパーキングがあり、その中にジャガーを停めた。