二二 猫背
■ 昼過ぎに上海大厦に戻った。
Eタイプは魅力的だが、この都市で日常的に使うことは許されないような気がした。
英国製のスポーツカーは大抵尻が丸い。
Eタイプの前、XK一五○もそうだった。英国人の正しい猫背のように、小さなテールランプが遠ざかる。
これだけのコンディションにあるEタイプを上海の街に確保してあることに私はすこし呆れていた。タイアはダンロップ、楕円のラジエターグリルはそのままだが、リアのマフラー廻りのメッキと、細かなエンブレムは外れている。
主に対米輸出に振り分けられていたこの時代のEタイプは、メッキの量が些かバランスを崩していた。それを適度なところまで枯れさせている。
ジャガーの創始者ウィリアム・ライオンズは、大衆の気持を旨く掴む才能に長けていた。
まずはスタイル、それから価格をみて大衆は購入を決める。
もともとスワロー・タイプのサイドカーの生産から始まったこの会社は、当時の大衆車に英国風流線型のボディを被せることで売り上げを伸ばした。
英国では階層によって選択する車種が明白に分かれている。
ジャガーのセダンは、基本的に中産階級の車であった。
政府の中級官僚や自営業者が選択する。どんなに金があっても、ロールスやベントレーなどには乗れないのだ。乗ることができたのは、髪を伸ばした音楽屋か映画の中のスパイだけだ。
スタイルだけの車、安物と蔑まれたジャガーは、育ちの貧しさを払拭するかのように次第に性能を向上させてゆく。SS一○○は白鳥が翼を広げたようなフロント・フェンダーを持っていたが、ライバルの半分程の価格で時速百マイルを実現した。
戦後、高価で高性能な車達が経営難から次々に姿を消すと、ジャガーは英国製スポーツカーのひとつの代名詞になってゆく。
ル・マンにおいて始めてディスクブレーキを使い、メルセデスと死闘を繰り広げたのもその頃である。メルセデスはエアブレーキで対抗した。
Eタイプは、そんな時代のジャガーの雰囲気を濃厚に残した最後の車種である。
それ以後、量産スポーツカーと呼べるものをジャガーは作っていない。
私は地下二階の駐車場で暫く濃紺のEタイプを眺めていた。ナンバープレートに「WJ」とあることに気付いた。
それから外に出て、エントランスの前に待っているタクシーを拾った。上海の街には溢れる程走っているワーゲンのパサート、現地名〈上海〉である。渋滞につかまるまで、五気筒なのだろう、抜けの良い排気音でパサートは飛ばした。
上海大厦の部屋に戻ると、日本からのファクスが届いていた。