■ 我々は二杯か三杯の酒を飲み、明白に酔うでもなくお互いの話を聞いていた。
 私はほとんどの場合聞き役に廻った。もっとも時には質問をすることもあった。興味があるというよりも、そこに居るのだということをわかってもらいたかったのだろう。
 吉川が上海の歴史について話した。
 上海は、第一回の中国共産党大会が開かれた場所であり、文革も発端は上海だった。中国近代の縮図のような都市だとも言った。
 晃子は「大災害」の原因となった「大躍進政策」について説明した。何処で調べてくるのか、話の流れが明晰であり私にもよくわかった。
 
 毛沢東は夢想的な性格をしていた。
 五七年、旧ソ連でスプートニクという人工衛星が打ち上げられる。東西冷戦構造盛りの頃だ。アメリカは蒼くなる。
 毛は「今だ」と思う。しかしスターリン批判と同時に対米平和共存を目指すフルシチョフに冷たくあしらわれ、激高する。結果、毛は独自の世界革命路線を進める決意を抱く。十五年以内に鉄鋼その他の工業製品生産量で、中国が英国を追い越すという目標が掲げられた。
 五十八年までに九八パーセントの農家が人民公社に組織される。
 人民公社とはパリ・コミューンをモデルにした地域住民の自治組織である。二千戸という大規模な農家が結集され、農業・商業・教育から民兵までを組み込んだ集団農場が全国に二万六千以上つくられた。
 生産計画の倍増や繰り上げが日常的に行われ、農家は生産物のほとんどを納入した。反面、全国から五千万ともいわれる労働力が鉄鋼生産のために動員された。「土法高炉」という極めて小さな製鉄用炉が全国に設置され、鉄の増産が目論まれた。結果として経済のボトルネックが露呈してゆく。
 
「本当のことが伝わらないと、みんな妄想を信じるようになるのよ」
 晃子がそう言った。どの国も同じだ。
 人口構成比のグラフをみると、少なくとも二千万人が餓死したことがわかる。公式には記録されていないが、人食が公然と行われていたとも言う。
 私は冴の話を思い出していた。私はウィスキーをそのまま嘗めていた。ものを思う時、氷の入らない酒の方が良い。
 霞町のビルの下にあるこの店は、若い客がほとんどいなかった。
 酒の味は何処でも似たようなものだ。そう言えば昔ほど酒を飲みに出かけなくなっていることに気付いた。