十六 遠花火
 
 
 
 
■ 冴はまだ死んでいなかった。
 酸素マスクで顔は隠れている。ホースが壁のノズルに繋がり、その脇には幾つもの医療器具があった。電源が入り微かにうなっている。
 ベットの横にある棚の上に、片づけ忘れたガーゼが一枚丸まっていた。ガーゼには茶色の染みが広がっている。
 
 私にはさっきから漂っている匂いの正体がわかったような気がした。
 それは古くなった血の匂いだ。
 体液や壊れた漿液に混ざって、行き場を遮られた人間の思いが流れずにとどまっている。上海から長崎へ向かう船の中、夜の二等船室で嗅いだ匂いにも似ていた。船室のむせるような人いきれの中には、微かな血の匂いが混ざっていた。
 
 私はベットの傍に寄った。冴の顔を覗き込んだ。透けるような肌色に眉毛が薄い。ベットの脇に不透明なビニール袋がぶら下がっている。半分ほど液体が入っている。カテーテルが膀胱に差し込まれているのだろう。
 私は十日ほど前の夜のことを思い出した。
 あの夜私は冴に会い、話をきくことになった。自分を買ってくれと言われ、そのまま買う。冴は天安門事件の後上海に逃れ、野鶏になった。できないんだからいいの、と彼女は言った。避妊の必要はないと言う。
 細い骨の廻りをしなやかな筋肉がくるんでいるような躯だった。十分に湿っているところと、乾いているところとが交互にあった。同じ夜、二度目に入ったとき、冴は「アイヤー」と耳元で何度か繰り返した。
 やりきれない気分が背中から昇ってきて両腕がだるくなった。
 ドアが開き、男が合図する。
「電話が入っています」
 私は廊下に出て携帯電話を受け取った。
「いや、どうも。どうにか命は取り留めたようです」
 初老の男の声だ。
「ふざけるな」
 私は腹が立っていた。言葉がみつからない。
「担当に説明をさせます。また後で」
 プツリと電話が切れた。私は左手の携帯電話を暫く眺めていた。アンテナを右手の掌で叩き収納すると、同行してきた男に返した。
「担当って誰だよ」
「こちらへどうぞ」
 廊下をうんざりする程歩かされ、地下の狭い部屋に私は案内された。