■ 上海の葉子に電話をした。
 想像される居場所全部にかけたが不在だった。晃子に連絡をする。まだ帰っていないようだ。留守番電話に簡単に吹き込んでおく。
 私は氷を取り出し酒を飲むことにした。あまり味がしない。
 ベットに横になり、眠りがくるのを待った。
 午後になり、電話が鳴った。迎えにきたという。
 交差点のところまで歩いてゆくと男が立っている。みるからに役人という格好で、半袖のワイシャツに地味なネクタイを締めている。三十すこしというところか。
 路肩に駐めてあった国産の小型車に乗った。
「禁煙じゃないんだろう」
 私は煙草を吸った。灰皿の辺りには細かな機械がいくつもついてる。ボリュームは絞ってあるが、時折女の声で指示が入っている。
「これ、デジタルなんだって」
「そうです」
「高いのかな」
「さあ、ボーナスくらいでは買えないでしょうね」
 
 車は首都高速を慎重に走り、レインボー・ブリッジにかかった。対岸に奇妙なかたちをしたビルが幾つもみえてくる。臨海副都心だ。
「香港返還を当て込んだのにね」
 私は男に話しかけてみた。私は雄弁になっていることに気付いている。
 一九九七年の香港の中国本土返還を前に、世界のどの都市が国際金融市場の指導的立場を握るのか、国家的規模で大問題とみなされていた時代があった。国有地は次々に民営化され、売りに出された。空前の土地騰貴ブームが始まり、架空の好況が花火のように打ち上げられ消えた。さなかにあるときはそれが永遠に続くものだと思われる。
 私は昔「遠花火」というコピーを書いたことを思い出した。あれは何の商品だったか。 
 これから夏が始まろうというのに気持は重い。
 鏡を多用した建築中のビルの横を通るとき、車の影が一瞬映る。
 白い布のようなものがそれに続いて、私は冴のことを思った。
 インターを左に逸れH市に入った。低い階層の病院の棟が近づく。車はその裏手へ廻り、守衛が鉄の柵を開けるのを待った。
「こちらです」
 ドアが開かれ、私は搬入口から病院の廊下に続く階段を昇った。
 匂いがする。記憶にある病院の匂いとはすこし違っている。リノリュウムの廊下はワックスをかけたのだろう、部分的に光り、外からの太陽光をところどころ反射して鈍い。
 何度か廊下を曲がり、人気のない一角に近づく。突き当たったところに灰白色のドアがありその前で立ち止まった。
 私は同行してきた男の顔をみた。彼はうなづく。
 ドアを開け、中に入った。