十四 民主少一点
         (ミンヂューシアオイーデイエン)
 
 
 
■ ビールを飲みながら冴は話し始めた。
 一九八九年六月四日、いわゆる天安門「血の日曜日」当時、冴は彼女の夫とともに広場に座り込んでいた。彼女は中央美術学院に籍があり、夫は北京大学の研究生だった。夫は「北京・大学自治連合会」に関与していて、学生の総リーダー、ウルカイシが五月末に罷免されるまで共に指導的立場にあった。
 
「六月四日にあそこでどんなことがあったかは、説明しなくてもわかるでしょ。わたしは軍の戦車が学生のテントに突っ込むのをみたし、子どもが撃たれ、顔の全部が無くなるのもすぐ隣でみていたわ。その子の母親は軍警の銃剣で胸を刺された」
「どうにか逃げた後、広場は封鎖されたわ。死体を集めガソリンをかけて焼くのよ。ヘリが来て死体とその粉を運び、広場は清掃されたの」
 どれくらいの人間が殺されたのか、はっきりした数字は出ていない。七千とも、失踪者を含めるとその数倍とも言われる。
「その後ね、密告が奨励されたの、文革の時のように。わたしは家を捨てて逃げ回ったわ」
 私は冴に尋ねてみた。
「家族はどうなったんだ」
「どうかしら。一本頂戴」
 冴は煙草を抜き取り火を点けた。
「まあ、彼がわたしを売ったのよ」
 唇をまるめ、ゆっくり煙を吐き出している。彼、というのは夫のことだろう。表情は読めなかった。
 私は冴の股に手を置き、横になるように促した。
「上海は面白い街よ、いくつもの地下組織があるの。民主の残党とアヘンや大麻にかかわる黒社会も」
 私は黙って煙草を吸っていた。冴の背中を指で撫でる。
 
「わたしは叫ぶのをやめたの。無駄だもの。第一泣き方を忘れたわ」
「忘れるものかな」
「ええ」
 天安門事件の後、北京中央テレビは繰り返し密告用の電話を流した。文革当時のそれに比べれば、密告数は微々たるものだと言われている。しかし、学生や市民の首班であった者の多くは軍警に逮捕され、密かに処刑された。香港や台湾に逃れた者もいたという。
 冴の夫は知識人であったのだろう。研究生というのは大学院に学ぶ者を意味する。逮捕され、尋問を受ける中で若い妻の居所を話してしまったとしても不思議ではない。
「血債血還(シユエヂヤイシユエフアン)」
 冴が口にする。〈血で購え〉という意味か。
 躯の向きを変え、冴が首に手を廻してくる。
「時間はあるわ」
 私は、冴の醒めた水のような声がどこから出てくるのかわかったような気がした。