■ どこをどう歩いたのかよく覚えていない。
 オレンジ色に光る東京タワーが大きくみえるところまでゆくと雨になった。
「悪いけど、送ってくださらない」
 私たちは傘を持たなかった。冴の髪が濡れ、生成のワンピースが貼りついている。タクシーを拾う。冴を連れ、私は自分の部屋の前まで戻った。濡れた髪だけでもと促すのだが、彼女は私の部屋に入ろうとはしない。仕方なく私は駐車場からサンクを引っぱり出した。
 酔いは醒めたつもりだった。天現寺まで廻り首都高速に乗った。
 レインボー・ブリッジを渡り、臨海副都心の辺りに出た。そこで前が詰まる。周囲にはいくつもの建築共同体の看板があり、組み上げられた鉄骨に小さな灯りが点いている。奥山が撃たれたのはこの奥の埠頭なのだと思った。
「上海の浦東に暫くいたんだ」
 私は冴に話しかけてみた。
 
「わたしはダスカの裏手で働いていたわ。野鶏(ヤーチー)って知ってるかしら」
 野鶏は上海の夜の女だ。路上に立ち客を曳く。
 上海の西蔵南路にある〈大世界〉は一九一七年に黄楚九によって作られた。ダスカと呼ばれている。長いこと上海の裏の世界を象徴する一種の魔窟になっていた。売春、アヘン、賭博、ありとあらゆるものが見せ物とされ、金さえあればどのような快楽も求め売ることができた。解放後、何度か名前は変わり今では健全な見せ物小屋になっている。子ども連れでゆくところになったのだという。
 その裏手を何本かゆくと入り組んだ路地に迷い込む。決して一人で入ってはいけないと、上海に滞在している間、葉子にも広告の二人の助手にも注意されていたことを私は思い出した。冴はそこにいたのか。
「知ってるよ」
「そう」
 湾岸を公園のある辺りで降りた。
 左に曲がり、何処までゆくのかを尋ねた。
 
「ううん、わたしを買ってよ」
 冴が言った。
 雨は小降りになってきている。