■ 旧日本陸軍において防諜・謀略など、秘密戦に携わる要員を養成したのが「陸軍中野学校」である。
 一九三七(昭和一二)年一二月、東京九段にある愛国婦人会本部付属の別館を借り、設立の準備が進められた。陸軍士官学校幹部候補生出身者の中から選抜された者が入所し、第一期生は三九年七月に卒業している。
 もともと日本軍は秘密戦についての理解が薄く、機関設立のための予算や場所なども十分ではなかった。正式に「陸軍中野学校」という名称になったのは四○年八月になってからで、初代校長には北島卓美少将が選ばれた。当初は「後方勤務要員養成所」と呼ばれていたという。
「〈秘密戦概論〉という八○頁程のテキストがある。これは戦後自衛隊の調査学校の教本になっていた。一九七七年、国会の予算委員会で野党議員がすっぱ抜き、やっとその存在が明らかになったんだがね」
 葉子の父は続けた。
「中野学校と密接な関係があったのが、陸軍登戸研究所だ。例えばマイクロドットと呼ばれる超縮写技術はその後のマイクロフィルムの原型となっている」
 それがこのライターに仕込まれたカメラとフィルムなのだろう。
「その研究所というのは何時頃できたんですか」
「一九二七年、昭和二年だ。始めは新宿戸山ケ原、次に川崎登戸、終戦間際には長野県に疎開している」