私は幾つかのポスターをつくった。
浦東新区の高層ビルの一画に事務所があり、そこで新しい製品の広告を台湾製のパソコンを使って、一日に幾つもでっちあげていた。
車から電気製品、口紅に上海市浦東新区工作委員会の宣伝物まで、そこではありとあらゆるものが宣伝の対象になっていた。
私が口にする言葉を二人の助手が中国語に直してゆくのである。彼等は日本に留学していたこともあり、言葉の点で問題はなかった。ただ、そうした曖昧な言い方はここでは通じないと何度も指摘された。
浦東の建築現場には沢山の労働者がいた。その数は五十万人とも言われる。
工事は夜を徹して行われることも多く、付近にはバラックのような飯場が点在していた。時折、軍の車両が巡回に廻っている。公安警察では追いつかないのだ。
工夫の中には周辺の農村からでてきてそのまま戻ることのできない男達も随分いるようだった。彼等は現場の傍にある資材置き場で夜を過ごしている。雨の日にはビニールのシートを被って路上で寝ていた。
私は往復の車の中でよく眠った。上海の渋滞は運転手がエンジンを止める程で、そうするとエアコンが効かない。
「ねえ、日本ではどの部屋にもテレビがあるんでしょ」
江菫が言った。
「そうでもないさ」
私はどうすべきか迷っていることに気付いた。デッキの外は雨になったようだ。低い音が耳の傍で続いていて、それは床下から伝わる。鋼鉄の下は深い海だ。
ここはどのへんなんだろう。日本に近づいている。