一世行人。
 
 
 
■ 井上さんが調査に参加したミイラは、そのことごとくが身体から内臓が抜かれていなかった。つまり、ミイラになる前の状態が、内臓をぬかなくても差し支えない状態になっていたということである。
 井上さんは書いている。
「ミイラたちは全部が真言修験の行者たちで、それも湯殿山で修業した行人に限られていた。
 行人というのは修験道の方では一番下の階級で、一生修業しても上の階級には上れない人たちである」(井上靖「日本の旅」平泉紀行:岩波書店:104頁)
 
 
 
■ 内臓を抜かなくてもいいような状態にもっていくには、三年五穀を断ち、後の三年は十穀を断つといったような木食行の年月を過ごす。
 宗教的な意味を省けば、これは何年がかりの緩慢な餓死である。
 また、望んだからといって、自分ひとりではミイラになることはできない。
 長期に渡る修業中の食事の世話から、入定後ほぼ三年三ヶ月経った後で掘り起こし、その処置をして貰う必要もある。
 沖縄や奄美の一部に「洗骨」という風習があったが、死後のこの作業というのは、周囲の人たちにとって決して好ましい仕事である筈もなかっただろう。
 湯殿山麓には「塚」と呼ばれる墓所がいくつかあると言われている。
 そうしたところの多くは、折角修業して入定したのに、何年経っても掘り出されていないでいる不幸なミイラたちが眠っているところだと推定されていた。
 
 
 
■「現在ミイラは全国で二十何体発見されているという。塚に眠っているミイラを入れると、もっとその数は多くなる筈である。前述したようにミイラになった人の多くは修験道の身分で言うと最下級の行人であり、しかも、自分の肉体を売ることを職業としていた労務者が多く、罪を犯して寺に逃げ込んだような境遇の人もいる」(井上靖「日本の旅」平泉紀行:岩波書店:106頁)
 
 封建社会における身分の視点、とまとめていいかどうか。
 一方で平泉の黄金の堂内に眠る藤原三代のミイラがあり、一方で無名の貧しい行人たちによる数年がかりの自身のミイラ化が志向され実行された。
 この対比もさることながら、即身仏、ミイラ仏になろうとしたのは決して高僧ではなかったというところが胃にもたれる。