冬の果て 3.
■ 聖と俗は隣り合わせだが、死と生、もっと言えば性もその区分は曖昧である。
その誘いに乗っていればその後どういう人生になったのだろう。
よく働くもの静かな寡婦はどういう腰つきをしていたのだろう。
主人公を囃すおはぐろの入れ歯のばさまと、何をしているかよく分からない修験者崩れのような黒いモンペ姿の男。その男と寡婦とのあいだがら。
男女の仲はどこまで本当かは分からず、組み敷くも隷属も、その手脚は入れ子近くになっていて、ではあの誘いには何の意味があったのか。
■ 森敦さんは旧制一高を途中で辞めていた。
私は森さんのよき読者ではなかったので仔細は不分明だが、当時の旧制一高と言えば、今からはちょっと想像ができないくらいの知識層の原型である。絶対値ではなく社会から見た相対として、数として。
そこに地域性を加味してもいい。
放浪者・他所者として村を訪れても、即身仏・ミイラにされなかったのはその故だろうか。作中繰り返されるその話は、主人公の幽明の世界への怯え、もしくは寓話だったろうか。
■ 一定の素養を持った近代的な自我のありようと、半ばアニミズムに近いところにある存在や生活との対比が作品の軸になっていると感じる箇所はいくつもあって、私は川端康成の「伊豆の踊り子」で描かれなかった部分を思い出していた。「踊り子」が青春の放浪だとすれば、こちらは俗と肉を知った中年期のそれである。
一幅の墨絵にも似た形に綴っていくには、更に20数回の冬を見送る必要があったのだと思われた。