砂の岬 3.
■ 教授グループ事件以後、顔ぶれが一変する。
自由主義的傾向を持つ筆者は退けられる。
「新しい執筆人には二種類あった。
第一はいままでは比較的不遇な人達で、新しい時代に棹さして、改めて自分を大いに売り出そうという人達である。簡単にいえば便乗者である。ともかく自分を売り出すことばかりを考えていた。
第二のほうは、ほんとうに神がかりの気持になった人である。この人達は無邪気なのか、或いは批判力がないのかわからないが、心から新しい時代の到来を信じ『聖戦の本義』ということを唱え、日本の力が世界の指導的立場に立っているかのごとき無邪気な陶酔に陥っていたのである」
「そのいずれも、一種の志士気どりで、なんとなく時代錯誤の感じが強かった。 文章も比較的上手な人が多く、一種の古風な調子が新しい読者を惹きつけたようである。しかし私はこの志士気どりが、たまらなくイヤだった」
(前掲:115頁)
■ たまらなくイヤだっただろうと思う。
ここで注目していただきたいのは、「いままでは比較的不遇な人達」という池島さんの分析である。
本来であれば表舞台に出てくるようなタイプ、または力を持っている訳ではないのだが、ここぞとばかりに自らを売り込む。大袈裟に騒ぐ。一見鋭く批判しているかのように見せてはいるが、肝心なところは優勢な方に流れていく。ガス抜きか誘導、つまりはポーズである。
「いかに間違っていても、心からそう思って協力した人に対しては私なぞ何もいう資格はないが、しかしこれを好機として自分を売り出す便乗者はタマらない」
(前掲;116頁)
池島さんはそう書いている。
上記文章の前半は、この人らしい謙譲と、ある側面からすれば限界と受け取られても仕方のない姿勢を含んだ一文かも知れない。
いかにも中産階級的良識を軸に置いた感覚だと私は思う。
■ この一文、時代背景としては、ちょうど小津監督が一連の作品を撮っている頃である。
小津監督の映画では、かつてあったかのような中産階級の生活がしばしば描かれていた。実際は幻のようなものだったのだが、ともかくあのような背広と丸の内のビルヂング。銀座にはまだ都電が走っていた。
久保田万太郎の傑作「三の酉」は1956年である。
池島さんの文章におけるカタカナの混ざり方なども、ある種の時代性だったろうか。
どうでもいいことではあるけれど。