卑怯者の弁 3.
 
 
 
■ 清水幾太郎氏というのは、60年安保の際の代表的知識人・論客である。
 その時は頭に進歩的という形容詞がついていた。
 煽るだけ煽りながら、その後、その思想らしきものを転回させていった。
 まともに読んでいないので断言はできないが、かつての日本浪漫派か、大陸へ渡った壮士みたいなものだろうという気はしている。
 ある大学の方が仔細な研究をネットに公開していた。
 
 
 
「忠誠心と言うけれど、いったい、何のための、誰のための忠誠心なのだろうか。『自分を超えたものの存立』とは、いったい、何のことなのだろうか。私にはわからない。わからないものに『自分を献げ』ることはできない。
 
 私は、まったく理解に苦しむのであるが、こういう声は、三十五年前、四十年前に、さんざん聞かされ、教育されてきたあの声とよく似ているということだけはわかるのである。背中が痛み体が慄えてくるのはそのためである」
 
「ああ、聞いた聞いた、これも聞いた。これも、あの時の声とそっくり同じである。社会学の大先生に向って、こういうことを言うのはどうかと思われるが、私の乏しい知識と貧しい頭脳からすると、こういうのがデマゴギーということになる」
(山口瞳「卑怯者の弁」)
 
 
 
■「ああ、聞いた聞いた、これも聞いた」と書く山口さんの筆は鋭いというかなんというか。
 勘のいい緑坂読者なら、「自分を超えたものの存立」ということを盛んに言い始めている方々がいることを思い出されるだろう。
 ネットを含む様々な分野でである。