紺色の海。
■ おさわは、赤坂の芸妓である。
生まれは吉原だという。実家は引出茶屋。
14のときに震災にあい、郭の中の花園池に逃げ入って両親が死ぬ。
その時、女学校の一年。
親戚に芸妓に売られ、それから30年の月日が経った。
指折り数えるといよいよ50の坂のかげが見える頃合いである。
■ ここで言う震災とは、関東大震災のことである。大正12(1923)年。
死者・行方不明者総数は、諸説あるが約10万5千余名。
当時吉原にあった花園池では、火災から避難してきた人たち490名が溺死している。
花園池は別名「弁天池」。昭和34年に埋め立てられ、今は名残を残すだけになっている。吉原、郭の地は、元々遊女の逃亡を防止するために避難路という概念を遮断していたのだった。
■ おさわは鎌倉、材木座の海にいく。
実家のお酌さんだった「年ちゃん」という女性が、今では日本画家の奥さんになっていて彼女は鎌倉に住んでいる。戦争中は疎開先でも世話になっていた。
普段食べつけない野菜の煮物などを、おさわは初めておいしいと思って食べる。女学校に通わせてもらっていたお嬢さん、引出茶屋の娘と、そこに住み込んでいた「お酌さん」、つまり半玉であるが、その二人は今となっては立場はなかば逆転してしまっているけれども、娘時代を共に過ごした間柄である。
年ちゃんの家から少し歩いたところにある海。
材木座から見える海が、青ではなくて全くの紺色だった。
それがおさわに、少女の頃に見たひとつの光景を思い出させるのである。
‥‥途端に、あたし、おもひだしたの。
何を。
熊谷の芝居の"組内"んとこのあの海の道具を。
大正期の、菊五郎、吉衛門という二人の若い役者。‥‥その人気によって盛り上げられいはゆる市村座時代は、また、東京の、新橋、赤坂、芦町、柳橋といつた、それぞれの花柳界にとつても黄金時代だった。‥‥おさわの、たまたまいつたその"組内"の海の一ト言は、ぼくに、ゆくりなく、ありし日の、自動車のまだめづらしかったころの東京の人情をおもひださせたのである
(久保田万太郎「三の酉」)。