三の酉。
■ 久保田万太郎は明治22(1889)年生まれ。
浅草で育ち、三田で学び、関東大震災で焼け出されるまで浅草の地を離れなかった。
芥川などの先輩筋にあたる。廣津和郎や菊池寛、宇野浩二などとはほぼ同世代ではなかったか。一方荷風は万太郎より10歳ほど年長であった。
近代文学や芸術に関わった先達の方々の例に漏れず、没落というか列の外に滲み出してしまったやや恒産ある者の子弟であった、とまとめれば粗雑と叱られるかもしれない。
当時、上級学校に進むには一定の恒産がなければ難しかったのだ。祖母に随分と可愛がられたという記載もある。後に家業は没落する。
「末枯(うらがれ)」「続末枯」「市井人」などの作品を、私は何時だったか読んだ覚えがある。
実生活に関しては、古くは小島政二郎の「鴎外荷風万太郎」(昭和40年)という回想記がなかなか衝撃的なことを書いていた。
が、今のところ、そこまで辿るのは野暮だろうという気分の方が強い。
荷風が後年病的なまでに吝嗇な生活者であったことに似て、実生活の按配は例えばその年譜を辿っていくと行間に滲んでもいる。
おい、この間、三の酉に行つたらう?‥‥‥
ズケリといって、ぼくは、おさわの顔をみたのである。
えゝ、行ったわ。‥‥‥どうして?
と、おさわは、大きな目を、くるッとさせた。
しかも、白昼、イケしゃアしゃアと、男と一しょによ‥‥‥
と、ぼくは、カセをかけた(久保田万太郎「三の酉」)。
■ 小説「三の酉」はこんな風に始まる。
万太郎の文章の特徴は、ここだけでもテキメンに顕れていて、つまり小説ではあるのだけれども舞台の台本風であること。
‥‥‥、や読点が存分に多いこと。あたかも役者の台詞の流れと息継ぎまでが、半ばト書きのように記されていることなどが指摘されている。
かといって、端的な散文かと言えばそうでもなく、やや回りくどい粘り腰のようなものが根底にあるとも評されていた。確かに昭和3年の「春泥」などは、今の時代、通して読むには僅かに癖があるとも言えるものだった。それだけに、一度その世界に沈溺すると抜けられなくもなるのである。
この「三の酉」は昭和31年「中央公論」に発表され、翌年読売文学賞を受賞している。
万太郎68歳。この辺りから赤坂伝馬町の三隅一子の家に隠れ住む。むろん訳ありである。
昭和30年代、ちょっとばかりカタカナ混じりの文章が流行りかけの頃合い。
「ダンゼンそう思ったのよ」など、日活映画でヒロインがしきりに使い始めていたのは、ちょうどその辺りからだと記憶している。