追憶のハイウェイ 61.
■ ディランという名前の喫茶店があった。
今でも地方都市にいけば何件かは残っているかも知れない。
読み返せばやや陳腐に感じるその詩も、青少年にとっては斜にかまえた大人の世界を想像させ、オートバイでの野宿と等しく、自由とその果てにある荒廃のようなものを教えてくれた。
太ももの間から見えた光景とでも言うべきか。
■ もし私が今若造なら、加えて単身者なら、立入禁止区画の近くまで恐らくは遠出していたかもしれない。250あたりのスズキで、行けるところまで行って写真を撮ってきたのではないかという気もする。
ほとんど無意味だし、野宿は大変に危険ではあるけれども。
■ 震災後、風景写真の意味は変わった。
と、私は個人的には思っている。
少なくとも北の方角へでかけ、美しい田園風景や海岸線を撮ろうとすることは、現実には少し厳しいものがあるのではないか。別の意味を生んでしまう。
自治体の観光部門が地元のカメラマンに協力を要請し、集めているようなあれこれがあるけれども、本来の意味で訴求力があるかと言われれば、立場上あるということにしておくという以外に言いようがない。
電線を消したり色味を補正したり、半ばありえない風景を作り上げていく。
こうした方向は原風景や記憶色などと呼ばれることもあるが、面白いことにその国によって記憶色のベースになっているものは随分と違っていて、例えば西欧における風景写真というのは、半ば油絵に近い形を採っているようにも感じられる。こってりとした構図と色味である。
一方、半島や大陸方面で活躍されている方の少なからずの作品は、墨絵に近い印象を残してもいる。