排除型社会 2. 
 
 
 
■ 例えばSNSやコミュニティがネットで花盛りである。
 出身地だったり経緯地だったり、ある事象に関しての「当時者性」などという言葉が、定義も曖昧なまま独り歩きしている。 
 
 
 
■ ヤングの同書には「社会的コミュニティが崩壊した結果ひとはアイデンティティを求めるようになった」との指摘があった。いわゆるルーツである。
 それは本質主義と呼ばれているが、反面「差異」という概念を許容する。
 具体的に差異とは、出身地だったり学校だったり、または様々な属性を契機にしてもいるのだけれども、その境界というのは極めて曖昧で、あるときはこちらににじり寄ってきたりする。
 その具体例を挙げよ、と言われればいくつでも可能なのだが、おそらくそれをすれば誰かが傷つく社会に私たちは生きている。
 昨日と今日とで立場が入れ替わることはままあるのだった。 
 
 
 
■ 誤解を恐れずに言えば、SNSというのは実は排除のシステムではないかという疑いを私は薄く持っている。
 一定の層を拾い出そうとする試みではあるのだが、もしかすると実際の主体はそこにはいない。
 というよりも、注意深く近づかないようにしているのである。