東北戊辰戦争と野辺地。 
 
 
 
■ 鳥羽・伏見の戦いが1868年正月。戊辰戦争がはじまる。
 新政府は徳川慶喜、会津藩主松平容保らを朝敵と断じ官位を剥奪して入京を禁ずる。
 奥羽鎮撫総督に九条道孝。参謀に長州藩士世良修蔵らを加えている。
 3月。総督府は大阪から海路奥州に向かい会津討伐を命じたが、仙台藩を始め誰も動こうとしない。
 4月。この世良修蔵という長州の侍は仙台藩士に惨殺される。
「奥羽全てを討つべし」というような高圧的または挑発的言辞を繰り返したからとされるが、それにより硬直状態を脱していくのだから、いわゆる任侠というか裏世界における鉄砲玉のような役割を果たしたと言って良いのかもしれない。
 5月。奥羽25藩越後6藩からなる「奥羽越列藩同盟」が成立。
 しかし、全国的に戦闘は官軍優位に展開していく。 
 
 
 
■ 会津落城がこの9月21-22日である。
 落城ではなく開城だという人もいて、確かに城を明け渡しているのだからそうだとも言えた。
 それに先立つ8月、弘前藩は盛岡藩討伐を総督府から命ぜられる。
 具体的には南部領、野辺地攻撃である。弘前藩は当初躊躇する。そうこうしていると官軍への忠義を疑われ、結局総督府軍の援護なく単独で戦争に入らざるを得ない状況となっていった。
 9月20日、野辺地侵攻。敵陣に放った火が逆流し、弘前藩士は田地で身動きがとれなくなる。戦死49人。この戦には八戸の猟師たちも参戦し活躍したという。
 いわゆるマタギと呼ばれた人たちである。 
 
 
 
■ この野辺地戦争は、ほぼ大勢が決まったあとの無用な流血だった。
 歴史を紐とくまでもなく、勝敗が決したあとでも余韻のように戦闘は散見する。
 そうでなければ収まらないかのようにである。
 ご存知の通り、青森は奥羽山脈を挟んで津軽と南部とで、気候もその言葉も生活も大きく異なっている。津軽と南部、積年の私怨があったとも言われるが、これは全国どこでも多少なりともみられることで、その微妙な空気は当該の土地に永年棲んでみないと身体に入ってこないものかもしれない。
 いずれにせよ、ここには翌年斗南藩が配置される。新政府によってである。
 野辺地を経由して、旧会津藩士は下北郡の田名部をめざした。