北のカムイ。
■ 歴史というのはその書き手の立ち居地によって大きく変わってしまう。
それが流布する過程もである。
明治はじめまでの下北半島、恐山の辺りがどのような土地だったのか。
どういった人たちが住んでいてその暮らしぶりはどうだったのか。
これを追うのはなかなか難しいことなのだが、そういったことが漠然とでも推測または想像できないと、例えば会津から斗南への移住について、その態様の想像はしにくい。
斗南藩の飛び地だった蝦夷地。例えばアイヌの暮らしぶりや北方交易についてもである。
■ それらは結局、北奥史に繋がっていくことになる。
例えば18世紀、江戸中期頃からの東北は冷涼な天候が続き、慢性的な不作現象に悩まされていた。寛政期(1789?1801)には帝政ロシアの南下による蝦夷地への圧力により、東北各藩は幕府より蝦夷地警備の軍役を課せられている。
これが藩の財政を圧迫する。
天明の大飢饉では、盛岡・八戸・弘前の三藩で大量の餓死者を出した。
藩の財政改革は思うにまかせず、次第に御用商人らが力をもちはじめる。
天保(1832)の大飢饉の際には八戸藩で「稗三合一揆」が起きている。
同様に、下北半島では田名部通一揆が頻発した。
これは蝦夷地警備への負担軽減を要望とするもので、1804年から1866年までのあいだ計11件の一揆が確認されたという。
また明治以後、義民と称えられ物語化されていった「民次郎一揆」などもあった。
この時代、凶作にともなう飢餓への恐怖のほか、蝦夷地の動静が北奥の暮らしには直接に関わっていたのである。
■ ここで話はとぶが、白土三平の名作「カムイ伝」の舞台、日置藩のモデルは何処だったのかという話があった。和歌山の方だともいい、南部藩(盛岡藩)だったという説もある。
「カムイ」という単語がアイヌ語からきているのは自明だが、件の物語は複合的で多くの要素を含み、俄かにどこだとは特定しがたい。
どなたが指摘していたのか、「カムイ伝」作中使われていた「非人」という単語は白土さんと「ガロ」編集長長井さんの造語であったという。
部落差別の問題を表現上かわすための手法だったというものだが、連載当時の社会情勢を考えると、さもありなんと思えるところもある。