斗南ヶ丘。
■ 下北移住を望んだのは旧会津藩士の側からであった。
猪苗代湖周辺にという案もあったのだが、それではあまりに会津に近すぎ、新政府に含むところがあるとみなされることを畏れたのである。
江戸表では移住地を廻って、抜刀してまでの議論がなされたという。
下北移住にあたって政府からは17万両の金員が支給された。
それは移住費にほとんどが消えてしまう。
旧会津藩、斗南藩士とその家族は一日三合の玄米で衣食住の全てを賄うようにと藩から配給を受けることとなる。
勿論それで足りるはずはない。
「当初民家に間借りせる人々も、家賃の支払いに窮し、次第に斗南ヶ丘その他の原野に三、四坪の草葺の掘立小屋を建てつらね、開墾を始めることとなれり」
(前掲:柴五郎の日誌より)
■ 移転した斗南藩士たちが、どこか開拓できる土地はないかと探しあぐねたのが「斗南ヶ丘」と名づけられた原野だった。
むつ市最花(さいばな)地区と田名辺川流域の平野をはさんでの広陵地帯。
ここには縄文時代の貝塚がある。
ここからは恐山山脈、下北半島最高峰である釜臥(かまぶし)山が見えた。
釜臥山は斗南藩士とその家族たちより、ふるさと会津「磐梯山」に擬せられたという。
■ 開拓の中心人物は3人。
県知事に相当する権大参事「山川浩」と副知事に相当する少参事「広沢安任」(やすとう)、同少参事「永岡久茂」らであった。
当時山川は25歳。広沢は40歳。そして永岡は30歳である。
彼らは新天地斗南に夢を託していく。